第10回 「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」に関する三つの立場

今回は、「一般問題」の第五節「純粋理性に基づく認識はどうして可能か」の四段落から八段落までを読みました。ページ数で言うと岩波版のpp. 56-60です。次回は第五節の残りの箇所と「先験的主要問題」の第一章「純粋数学はどうして可能か」の第七、八節くらいまで読んでいけたらと思います。 

 

 

ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」という問いは形而上学の存亡に関わる

・第五節の四段落において、カントは、ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」という問いの解決を、形而上学の存亡に関わることと見なしています。そして、そのような問いを解決することなく形而上学について論じる人の学説を、カントは「根拠のない独りよがりの哲学でありえせ学識にすぎない」と述べています。

 
・今回の読書会では、そうした問いを解決することなく形而上学について論じる人は、カント自身の今までの議論からすれば独断論者に当たるのではないか、とする解釈が為されました。また、四段落の五行目以降は、そうした人が一体どのような主張を行なっているかについて詳しく述べられています。それは以下のようなものです。


①純粋理性に基づき、認識はア・プリオリに創作できる
②与えられた概念を分析するにとどまらず、諸概念は新たに連結することも可能である
③また、その連結は矛盾律に基づかない
④そして、こうした連結は「必然的」なものであり、経験に関わることなく洞察できる。 

 

独断論とはどのような立場であるのか

・カント事典によれば、独断論とは「人間理性は何を、いかに、どこまで認識できるのか、この点に関する「理性能力についての先行する批判」のないまま理性を用いる」ような論説のことです(pp. 384-385)。

 また、同じくカント事典によれば、そうした独断論者としてカントが想定しているのはライプニッツ、ヴォルフなどの論者ですが、しかしヴォルフやその後継者であるバウムガルテンの哲学において、矛盾律は「存在論から宇宙論・霊魂論・神学に及ぶ、全形而上学の第一原理と位置付けられる」のであり、四段落で述べられているような独断論者と厳密には一致しません。このことについて今回の読書会では議論が為されました。

 

・主催者個人の解釈としては、ここでカントが述べている「えせ学識」の論者とは、特に「ア・プリオリな綜合的命題」に関して「理性能力についての先行する批判」のないまま理性を無批判に用いるような論者のことを指すのではないかというふうに思います。

 なぜなら、諸概念を新たに連結することは、「主語概念において考えられなかったもの、或いは主語概念を分析することによっては引き出し得なかったものを、この概念に付け加える」ような、認識を増大させる判断──すなわち綜合的判断のことを指していると考えられ(純利・一一)、そして、そのような連結を経験にかかわらず洞察することとは、ア・プリオリな総合的命題」の可能性を問うことなく無批判に理性を用いているというふうに考えられるからです(正確な表現ではないかもしれませんが…)。


 ・また、四段落の十行目の「申し開き」は英語ではjustifyに当たるのではないかとする指摘が為されました。

・五段落では、「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」という問題がなぜ解決されてこなかったかについて、カントは主に二つの理由を提示しており、一つは「こういうことが問題になり得るなどとは何びとも思いつかなかった」からであり、もう一つは「〔それを解決するには〕深くかつ骨の折れる思索を必要とする」からであるとカントは述べています。 

 

ア・プリオリで純粋なかかる綜合的認識が実際に存在していない」というヒュームの立場

・そして、ヒュームのようなア・プリオリで純粋なかかる綜合的認識が実際に存在していない」と考えるような論者においては、そもそも、こうした課題そのものがあり得るとすら考えられないだろう、とカントは述べ、五段落の後半部分はヒュームが取るだろう立場についてカントは論じています。 


・ヒュームによれば、概念の新たな連結は経験によって、すなわちア・ポステリオリな総合判断によって可能となりますが、その場合、そうした諸概念の連結は「必然的」ではあり得ません。もし仮にそうした連結が必然的であると見えるなら、それは「経験において同じ連想がたびたび繰返されると、そこから主観的必然性が生じる、するとこの必然性は、遂には客観的誤想」されるような、いわば「習慣」の結果に他ならない、このようにカントはヒュームの立場を再構成しています。


 ・本書において、カントはヒュームの立場を常に因果の必然的連結に論駁した論者として記述していましたが、この箇所では、カントはヒュームの立場を因果関係だけにとどまらず諸概念の連結に対して一定の立場を取っている論者として記述しています。

 

 ・今回の読書会では、p. 58の一行目冒頭で訳者が付け加えている「〔純粋数学および純粋自然学〕」という箇所がミス・リーディングを誘う箇所であることが指摘されました。

 この箇所は「ア・プリオリで純粋なかかる綜合的認識」の言い換えですが、「ア・プリオリで純粋なかかる綜合的認識」に純粋数学が含まれていると考えているのはカントの方であり、ヒュームはそう考えていません。たとえばp. 42で、カントはヒュームが「純粋数学は分析的命題だけを含むが、これに反して形而上学ア・プリオリな綜合的命題を含む」と考えている、と述べています。

 したがって、ヒューム自身が純粋数学は実際に存在していないと仮定しているわけではなく、仮にp. 42の引用をそのまま受け止めるならば、ヒューム自身が実際に存在しないと仮定しているのは形而上学の方ではないか、とする解釈が為されました。 

 

「説得の技術」として用いるのであれば、特に否定はしない

・六段落では、カントが自らの仕事を「完全な普遍性」を持ち、かつ分析的方法によって為されたものであると述べていることが確認されました。ここで述べられた「完全な普遍性」とは、いかなる事例に対しても妥当するということを意味していると解釈されました。


 ・八段落では、「ア・プリオリで純粋なかかる綜合的認識」に対する十分な回答を持ち合わせていなくとも、それを「学として」ではなく「説得の技術として」用いるのであれば、特にその営為を否定しないとカントは述べています。

 しかし、そのような形而上学者は、経験の彼方にある「何か或るもの」を、「推測する」のでも「知る」のでもなくただ「想定する」ことだけが許されるとカントは述べています。ゆえに、そのような形而上学者の「意見(Fürwahrhalten)」は「理性的信」に他ならないというふうにカントは述べています。

 

「信憑」は「臆見(Meinen)」と「信仰(Glau-ben)」と「知識(Wissen)」の三つに分類される

 カント事典では、Fürwahrhaltenは「信憑」と訳されます(以下、Fürwahrhaltenを「信憑」と表記する)。同事典によれば、『純粋理性批判』の後編である「超越論的方法論」の第二章三節で、カントは信憑を「臆見(Meinen)」と「信仰(Glau-ben)」と「知識(Wissen)」の三つに分類しています。

 そして、カントは主観的にも客観的にも不十分な信憑を「臆見」、主観的には十分だが客観的には不十分な信憑を「信仰」、主観的にも客観的にも十分な信憑を「知識」と見なしています。そのため、カントがここで「理性的信」と呼んでいるものは「信仰」に当たると考えられます。


 ・ここでカントが「何か或るもの」と呼んでいるものは、おもに「神や自由」などといったものである、とする解釈が為されました。このような「何か或るもの」は「生活において悟性と意志を指導」し、むしろ「この指導に欠くことができない」ものであるとカントは述べています。しかし、仮に「ア・プリオリな判断を問題とする」ならば、その認識は「必然的なもの」でなければならず、したがって、その主張は学でなければならない、とカントは述べています。

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

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