第11回 「超越論的」と「超越的」

今回は、「一般問題」の第五節「純粋理性に基づく認識はどうして可能か」の九段落と十段落の途中までを読み進めました。ページ数で言うと岩波版のpp. 61-62です。今日は参加者の方が少なかったので、『プロレゴメナ』を主に読み進めていくというより、カント事典の幾つかの項を参加者の方と読みながらゆっくりと議論を行いました。
 次回は第五節の残りの箇所と「先験的主要問題」の第一章「純粋数学はどうして可能か」の第七、八節くらいまで読んでいけたらと思います。

 

 

「超越論的(transzendental)」とはどういう概念なのか

・今回の読書会では、第五節の九段落において最も中心的な主張は「先験的哲学は、すべての形而上学に先立たねばならない」という箇所である、とする指摘が為されました。

 

・訳注によれば、先験的哲学とは「先験的概念の体系」のことであり、「純粋理性の一切の原理の体系」のことです(「純理」・二五、二七)。今回の読書会では、先験的哲学と訳されるTranszendentalphilosophieは「超越論的哲学」と訳すほうがよいだろう、という指摘がなされました。カント事典でも、Transzendentalphilosophieは「超越論的哲学」と訳出されています。

 

・今回の読書会では、カント事典に記載されている「超越的」の項と、「超越論的」の項の「【Ⅰ】伝統的意味」と「【Ⅱ】「序論」の定義」を読みました(pp. 335-337)。

 

その歴史的経緯とカント自身の用法

・カント事典によれば、「超越論的(transzendental)」は、「『純粋理性批判』の最も中心的な術語」であり、一般に「超越的(transzendent)」とは区別されていますラテン語では前者が現在分詞のtranscendentaleであり、後者は形容詞のtranscendensですが、どちらにせよスコラ哲学においては同じ意味を表す語として考えられてきました。

 スコラ哲学において、両者はアリストテレスのカテゴリーのいずれにも適用されるという仕方でそれを超越するような概念」であり、そうした概念は主に「有(存在)」「一」「真」「善」という四つの概念として想定されています。

 

・それに対し、第一批判の「序論」においてカントは「超越論的」を以下のように定義しています。(第一版と第二版では記述が若干異なるので、併記します)

 

「私は、対象にではなく、むしろ対象一般についてのわれわれのアプリオリな諸概念に係わるすべての認識を、超越論的と名づける」[A 11f.](第一版)
「私は、対象にではなく、むしろ対象一般についてのわれわれの認識様式に、これがアプリオリに可能であるべきかぎり係わるすべての認識を、超越論的と名づける」(第二版)

 

・そして、カント事典の「超越論的」の項の冒頭において、「純粋理性の自己認識」において成立している「純粋理性の自己関係」こそが超越論的に対して核心を成していると述べられています(同項において、「純粋理性の自己関係」には独立した節が設けられています)。

 また、「超越的」の項では「超越論的とは〔…〕基本的には経験の成立する条件として、そのようなアプリオリ性を認める考え方をいう」と述べられています。

 

「対象(Gegenstand)」とは、知性との関係を含む認識論的概念である

・また、カントにおいて、「対象(Gegenstand)」とは「物(Ding)」のような存在論的な概念とは区別された、「何らかの知性との関係を含む認識論的概念である」と見なされます(カント事典、p. 321)。

 そのため、先の定義における「対象」は、すでに何らかの認識論的な構図によって先立たれた概念であると見なすことが差し当たり可能です。また、このような「対象(Gegenstand)」と「物(Ding)」の相違は、事象をいわゆる「現象(Erscheinung)」と「物自体(Ding an sich)」とに分割するカント哲学の基本的な枠組みに対応するように思われますが、その点についてはまだ判断する素材が少ないため、判断を留保しました。

 

カテゴリーに係わるすべての認識を、超越論的とカントは呼んでいる

・カント事典の記述に従うならば、「対象一般についてのわれわれのアプリオリな諸概念」とは「純粋悟性概念(カテゴリー)」のことを指しています。

 したがって、第一版の定義では、カテゴリーに係わるすべての認識を、超越論的とカントは呼んでいると読むことができます。とはいえ、九段落の議論で述べられている事柄からそこまで読み取ることはできないので、超越論的が何であるかに関する議論はひとまず保留されました。

 

カントにおける理論的認識と実践的認識の違いと直観について

・十段落において、カントは再度プロレゴメナにおいて採用する方法が「分析的方法」であることを述べつつ、「理論的認識」に属する二つの学、すなわち純粋数学と純粋自然学とを引き合いに出し、両者の学はどちらも「対象を直観において示すことができる」と述べています。

 カント事典によれば、「理論的認識」とは「現に存在するもの」の認識であり、存在する「べきはず(sollen)」事柄を表象する「実践的認識」とは区別されます(p. 400)。

 

直観とは対象へ直接的に関係する表象のこと

「対象を直観において示すことができる」とは一体どういうことなのかについて、議論が為されました。また、十段落の五行目から七行目にかけての文は、邦訳では文章構造が若干煩雑であり、指示語や言い換え表現などが把握しづらく、この文をどのように読み解けばいいのかについて、議論が為されました。また、この文を解釈するにあたり、この文の内容と「超越論的観念性」と呼ばれる概念との関連性が指摘されました(カント事典ではp. 340の箇所)。

 

・カント事典によれば、直観とは「対象へ直接的に関係する表象」のことを指します。前述でも述べたように、対象は「何らかの知性への関係を含む認識論的な概念」です。そして、「表象(Vorstellung)」はラテン語のperceptioのドイツ語訳であるため、ライプニッツのperceptioがどのような概念であるかは今のところ不分明ですが、差し当たり表象には知覚のニュアンスがあるだろうということが確認されました。

 とはいえ、カントの想定する純粋数学の原理は矛盾律ではありませんが、さりとてア・ポステリオリな綜合判断とも異なっており、それゆえ素朴な意味での知覚と直観が異なっているのは明らかです。「直観」に関する議論は、先験的主要問題の中心的な論点の一つでもあります。

 

・また、「直観」は「直観/直感」と訳し分けられる場合があるという指摘が為されました。前者は「知的直観」のことを指し、後者は「感性的直観」のことを指すようです。

プロレゴメナ (岩波文庫)

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カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

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