第14回と第15回(1) 「根源的獲得」としてのア・プリオリ

   前回と今回は、「超越論的主要問題」の第一章「純粋数学はどうして可能か」の第十一節から第十三節まで読み進めました。ページ数で言うと、岩波版のpp. 71-77です。
次回は、本論と同じくらい分量がある注の一から読み進めていきたいと思います。

 

 

第一章のおさらい

・少し前の箇所から辿り直すと、本章の課題は「純粋数学はどうして可能か」であり、そしてそれは「何か或るものをア・プリオリに直観することはどうして可能か」という問いに言い換えられました(第八節)。
    この課題は、対象そのものに先立って対象を直観するはどうして可能かという課題に等しく、仮に直観が物自体を表象するのであれば、その課題は不可能である、とカントは述べています。

 

・カントにとって、直観が対象に先立つものであるためには、直観は一切の内容を持たない感性の形式である必要があります。つまり、対象の先立つような純粋直観は、対象の側の形式であると同時に認識能力の形式であることによって、対象から先立つものと見なすことが可能となります(第九節)

(「つまり」以下の文は主催者によるやや踏み込んだ解釈です)。そして、そうした純粋直観とは時間と空間であるとカントは述べています(第十節)。


・こうした事柄を前提とした上で、第十一節でカントは、「この章の課題は、これですっかり解決されたことになる」と述べています。第十一段落の一段落の1行目から8行目の「ところで」までは、自らが本章で行なった議論を再度手短に述べている箇所であると考えられます。

 

「自発的に」と「ア・プリオリに」の言い換え関係

・8行目の「ところで」以下の議論で、カントは、空間および時間を現象にではなく物自体に属すると見なす立場に対し、再度反駁を行います。

 

「我々が物についてまだ何も知らないのに、それだからまた物がまだ我々に与えられていないのに、その物の直観がどのような性質のものでなければならないということを知るのが、どうして可能とわかるのか」(p. 72)


・与えられていないものの直観の性質を知ることは不可能であるが、もしその直観が「主観の形式的条件」であるならば、その物(この場合は現象になるのかもしれませんが)の直観がどのような性質であるのかを知ることは可能である、とカントはおそらく述べているのだと思いますが、主催者自身この箇所についてあまりよく分かっていないので、踏み込んだ言い方はできません。


・注意すべき点は、第十一節の最終文「そうすれば現象の形式であるところの純粋直観は、われわれによって自発的に──と言うのは、ア・プリオリに表象され得るからである」と述べているところです。「そうすれば」とは「空間および時間は我々の感性の形式的条件にすぎないし、また対象は現象にほかならないというふうに考える」ことです。
    この文では、「自発的に」という表現が「ア・プリオリに」という表現で言い換えられていますが、もちろん「自発的に」と「ア・プリオリに」は、素朴に考えれば全く異なった表現です。どう考えればいいのでしょうか。

 

「自発性(Spontaneität)」とは何か

・カント事典によれば、「自己活動性(Selbsttätigkeit)」と同義の意味を持つ「自発性(Spontaneität)」は、「直接に自分自身の内から自力で能動的に自らを働かせる能力であ」り、また「自らの存在の原因と根拠を自分自身のうちにもつもの」だけがそうした自発性を持っているそうです
    そのような自発性は、「経験的感覚的感性的なもの」よりも「純粋で知性的叡智的なもの」に対応しており、「客観(存在)よりもむしろ主観(はたらき)」との関わりにおいて考えられます。
 

・そもそも、カントにおいて、人間の認識は「感性」と「悟性」に二分され、前者が我々に対象を与え、そして後者によってその対象が思惟されます。そのため、感性は受容する能力であり、対して悟性は、そうした感性が受容する「多様」に同一の対象を認める能力です。そしてその対象は「概念」と呼ばれます。

 つまり、「触発を通じて受容された多様な表象を、悟性の働きとしての「機能」によって概念的統一へともたらす」のが、感性と悟性によって構成される認識能力の役割と考えられます(p. 225)。

 

・しかし、この説明では、自発性は悟性の対象である概念と主に関わっており、感性的形式であるところの純粋直観に関わると見なすことは困難です。

 

ア・プリオリ」とは「生得的」のことではない

・「自発的に」と「ア・プリオリに」の言い換え関係を理解するには、あらためてカントが用いる「ア・プリオリ」という概念が何であるかについて考える必要があります。

 

ア・プリオリは「経験に先立つ」ことを意味しますが、しかし、それは心理学で言うところの「生得的(ange-boren)」とは区別されなければなりません。というのも、心理学的なニュアンスがある「生得的」という概念には「生まれつき、生まれを持っての」といった意味があるのに対し、カント事典によれば、カントの言う「ア・プリオリ」は「秩序のうえで、また認識源泉に関して言われる」概念であるからです。

 

・たとえば、カントは、ア・プリオリであることの指標として「必然性」と「普遍性」の二つを挙げています。何らかの判断・認識が、その内容の特殊性や認識主体の個別性とは無関係に、加えて必ず成り立つとき、そうした判断・認識はア・プリオリな判断・認識と見なされます。つまり、いつ・どこで・誰にとっても成り立つならば、そうした判断・概念はア・プリオリであると見なされます。

 

・興味深いのは、「生得的」と「ア・プリオリ」とを区別するカントは、「生得観念」は存在すると見なすライプニッツと、観念は全て経験より生じるというロックとの論争において、そのどちらの立場にも立たず、純粋直観やカテゴリーのようなア・プリオリな概念を認識能力それ自身のうちから生じるものと見なしている点です。

 

〔カントは〕認識能力が自己活動によって自らの内から獲得した概念──直観であれ、概念であれ──の存在を主張する。彼は観念のそのような由来を、当時の自然法用語に則って「根源的獲得(acquisitio origingria)」と呼んだ。これによって、アプリオリとは「根源的に獲得された」という意味を持つことになる。その意味で、純粋直観(空間・時間)もカテゴリー(純粋悟性概念)も、カント的には根源的に獲得されたアプリオリな原理であって、生得的原理ではない。(『カント事典』、p. 4)


   これらのことを考慮するならば、「自発的に」と「ア・プリオリに」は共に、生得観念や経験によってではなく、「直接に自分自身の内から自力で能動的に自らを働かせる能力」によって表象が為されることを意味していると解釈することができます。

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

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縮刷版 カント事典

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