第21回 そもそも、カントが考える「自然」とはどのようなものであるのか?

 今回は「超越論的主要問題」の第二章「純粋自然科学はどうして可能か」の第十四節から第十六節までを読み進めました。ページ数で言うと、岩波版のpp. 91-95です。
 次回は、第一七節から読みたいと思います。

 

  

第14節における二つの主張

・14節において、カントは大きく分けて二つの主張をしています。
①自然とは「物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在」のことである。
②仮に自然が物自体の現実的存在だとすると、それはア・プリオリにもア・ポステリオリにも認識不可能である(ゆえに、自然は現象の現実的存在である)

 

カントにとって「自然」とは何か

・カント事典によれば、カントは自然は二通りの仕方で考察しています。
(a)「質料的な意味における」自然、あるいは「形相的な意味における自然」
(b)それ自身で「自己目的的」にある事物の総体としての自然、みずからをみずからで有機的に機制づけていく事物のあり方としての自然。

 

 『純粋理性批判』、あるいは『プロレゴメナ』においては、主に(a)の自然が主題的に考察されます。(b)の自然は主に『判断力批判』において主題的に考察されます

 

・(a)の自然において、前者は「現象の総体」と呼ばれ、後者は前者がそのもとにおいて可能となるような「規則の総体」と呼ばれます。
 ここで重要なことは、カントが、自らの考える自然を感性的に知覚される山川草木と区別しているところです。これは、カントが自然をあくまで「普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在」と規定していること関係しています。たとえば、『純粋理性批判』においてカントは以下のように述べています。

 

自然とは、諸現象が、その現存在からいって、必然的な規則、つまり法則にしたがって〔統一的に〕連関づけられていること [B 263]

 

 では、この普遍的法則とはどのようなものでしょうか。上述の規定を考慮するなら、それはさしあたり「諸現象を統一的に連関づけるもの」と考えられます。 

 

 ところで、14節の「物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在」という自然の規定は、16節では「物一般の現実的存在の規定の合法則性」と言い換えられています。「合法則性」とは何でしょうか。
 カント事典によれば、「合法則性(Gesetzmässigkeit)」は悟性の「立法」と関係しています。悟性は自然の諸法則の源泉であり、また、そのような諸法則はあくまで純粋悟性概念(カテゴリー)によって形式的に統一されます。

 このことから、合法則性とは、カテゴリーによって自然の現象が形式的に可能とされることを指し、また 、普遍的法則とは、自然の現象を形式的に可能とするカテゴリーに他ならないと考えられます。

  それゆえ、自然とは、「カテゴリーに従って規定される物の現実存在」であると言い換えることができます。


自然が「物自体の現実的存在」ではない二つの理由

ア・プリオリな認識の不可能性について、カントは以下のように述べています。

 

いったい物自体に何が属しているのかを、我々はどうして知っていると言えるのだろうか、このことを知るには、我々が物に関して持つところの〔主語〕概念の分析(分析的命題)によるのでは、まったく不可能だからである

 

 仮に自然が物自体の現実的存在だとするなら、その物に属する何かは、我々の悟性に従うのではなく、むしろ我々の悟性がその物に従わなくてはなりません。というのも、その場合の自然は、我々の悟性的な認識の如何に関わらず存在するものだと考えられるからです。

 しかしその場合、物自体は悟性的な認識に対して先立っていることから、悟性に由来するカテゴリーは物自体から与えられることになります。ですが、悟性的な認識があらかじめ与えられた物に依存するならば、そのような認識は、経験に依存する認識と見なされてしまいます。
 よって、自然が物自体の現実的存在であるならば、それをア・プリオリに認識すること不可能であるとカントは考えます(わたし自身もまだ理解があやふやなので、確たることは言えませんが)。

 

・ア・ポステリオリな認識の不可能性について、カントは以下のように述べています。

 

もし経験が、物の現実的存在を支配する法則を私に教えるということになると、これらの法則は──物自体に関する限り、──これまた私の経験のそとで必然的に物自体に属せばならないだろう。ところで経験が私に教えるのは、何が現実的に存在するのか、またそれはどのような仕方で存在しているのかということであって、そのものが必然的にそうだあり、それ以外のものであってはならないということではない。

 

 仮に自然が物自体の現実的存在であるなら、そのような自然の法則は経験を超えた普遍的・必然的なものでなければなりません。しかし、経験はあくまで特殊的・偶然的なものであることから、経験はあくまで物自体の本性を認識することはできない、そのようにカントは考えています。

 

第15節の論理構造

・第15節は以下のような論理的な構造を持っています。括弧内の接続詞は、論理的なつながりを強調するために筆者が付け加えたものです。

 

①我々は純粋な自然科学を所有している。
(そして)
②このことは、自然の予備学である一般自然科学について考察するだけで容易に明らかとなる。
(というのも)
③一般自然科学は数学や論理的原則に基づくから。
(だが)
④自然認識は運動・不可入性・惰性等の純粋ではない要素が含まれる。そのため、自然認識は純粋自然科学と呼ぶことができない。
(加えて)
⑤自然認識は外的感官の対象にだけ関係するため、一般的自然科学と呼ぶことは出来ない。
(しかし)
⑥一般的な物理学には「実体は常住不変」といった普遍的な命題が存在する。
(ゆえに)
⑦純粋自然科学は存在する
(したがって)
⑧問題は「純粋自然科学はどうして可能か」に限られる。

 

 この節の主張は⑧、すなわち「問題は「純粋自然科学はどうして可能か」に限られる」という箇所です。その⑧の根拠は①と⑦ですが、この2つは同じ主張の言い換えとなっています。そして、②〜⑤は①=⑦の根拠となっています。このことから、本節の論理構造を図示するならば、おおよそ以下のようなものになります。

 

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第15節の論理構造(「→」は帰結、「+」は付加、「=」は解説、「⇝」は転換を意味する)

 

客観を規定する、経験の一切の対象を総括する「自然」

・第十五節で問いの所在を限定したのち、第十六節でカントは、以下の二点を前節の議論に付け加えています。

①自然とは、「物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在」であるのみならず、「客観〔対象〕を規定する」、「経験の一切の対象の総括(totality)」である。

②本章が主題とする自然認識はア・プリオリに可能であり、またたとえ経験に先立つにせよ、しかしその実在性は経験によって実証せられ得る」

 

・まず①に関して。もし仮に自然が「客観〔対象〕を規定する」、「経験の一切の対象の総括(totality)」ではないなら、そのような自然の認識は「概念に頼らざるを得ない」。というのも、そのような自然は「経験の対象になり得ないような物」であるからだとカントは述べています。

 このことから、「客観〔対象〕を規定する」、「経験の一切の対象の総括(totality)」としての自然は、さしあたり経験の対象になり得るような物と解すことできます。

 

・加えて、概念は個別的・直接的な対象と関わる直観とは異なり、普遍的な対象に関わることから、このような概念が「実際に対象に関係する」のか、あるいは「単なる思惟の所産に過ぎない」のかは決定することができません。このことを、カントは「概念の実在性〔…〕は決定され得ない」と言い換えています。

  カント事典によれば、「実在性(Realität)」とは以下のような概念です。

 

「実在性」は「もの」が現実存在するための不可欠な条件であり、「もの」は、必ずこれこれの本質を持つものとしてある、何ものでもないようなものは存在しない。〔…〕「実在的定義」は、ものの可能(possibilis)であることを示すのであるが、それはまたいわゆる可能でしかない可能的世界というような意味でもない。むしろ、どの可能も現実存在への努力においても見られるのである(p. 215)

 

 このように、実在性は「「もの」が現実存在するための不可欠な条件」のことを指しています。

 加えて、カント事典によれば、何らかの概念・表象が実在性を持つということは、「当該の表象が対象への関係としての妥当性(Gültigkeit)をもつ、言い換えれば内容(Inhalt)をもつ」ことであり、したがって概念や表象は「対象が与えられること」によって実在性をもつというふうに考えられます。

 

まとめ

・上述の議論をまとめるなら、第十四節から十六節までの議論は、以下のようなものとして考えることができます。

 

 カントは、一方で自然を「カテゴリーによって規定される限りでの物の現実的存在」とみなし、他方で「経験の一切の対象の総括」とみなしています。

 前者によれば、自然は、あくまでもカテゴリーに従う限りにおいてア・プリオリに認識することができるのであり、純粋自然科学はこのような自然のみを対象とするために可能と見なされます。加えて、カテゴリーはそもそも思惟の形式であることから、そのような自然は、物自体ではなく現象の現実的存在であると見なされます。

 しかし、そのような自然科学は、実際の対象と関係することによって初めてその実在性が認められます。というのも、もし仮に純粋自然科学の対象が概念的にのみ認識されるならば、そのような認識は、神を対象とするような超自然的認識と何ら変わらないからです。ゆえに、純粋自然科学は、一方で思惟の形式であるところのカテゴリーに従いながら、他方で個々別の対象に適用されることが可能な総括(totaliry)としての自然を対象としなければなりません。

 このことから、そのような自然を対象とする自然認識は、ア・プリオリに可能であり、またたとえ経験に先立つにせよ、しかしその実在性は経験によって実証せられ得る」ものでなければならないと考えられます(この点については、きちんと議論を理解できているかどうか自信がないので、もし別の解釈があるよという方は言っていただけると嬉しいです)

 

客観についての若干の補足

・ところで、カントは「客観=対象(Objekt)」という概念に対して独自の意味規定を行なっています。

 通常であれば、「客観」は「主観」と対立し、各主体の主観的な認識から独立したもののことを指します。しかし、カントにとって、我々が認識するのは物自体ではなく現象に他なりません。とするなら、カントにとって、そのような現象がいかにして客観性を持ちうるのかが問題となります。カントは、客観性を持ったこのような現象のことを「超越論的客観(対象)」と呼んでいます。

 

現象はわれわれに直接的に与えられうる唯一の対象であって、そこにおいて直接的に対象に関係するものが直観である。しかるにこれらの現象は物自体にではなく、それら自身再び自らの対象を有するところの表象に過ぎない。この対象はそれゆえ、われわれによってもはや直観されえず、したがって非経験的な、すなわち超越論的な対象=Xと呼ばれうるだろう[A 108.f]

超越論的客観は何らの実在的客観あるいは与えられた物でもなく、それに対する関係において現象が統一をもつところの概念である。なぜなら、現象には何か或るものの現象しか知らぬにせよ、対応していなければならないからである[Refl. 5554]

 

(ここら辺の議論はカントの議論において恐らくかなり込み入った箇所であるため、断定はできませんが、さしあたりカントにおける「客観」の概念が複雑なコンテクストに置かれているという点だけを本稿では指摘して、踏み込んだ判断は保留します)

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

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縮刷版 カント事典

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第20回 批判的観念論は物の実在性を否定しない

  今回は、「超越論的主要問題」の第一章「純粋数学はどうして可能か」の注3と、第二章「純粋自然科学はどうして可能か」の第十四節を読み進めました。ページ数で言うと、岩波版のpp. 87-92です。

  次回は、第十五節から読みたいと思います。

 

 

二つの事態を防ぐ唯一の立場

・今回の読書会では、第一章注3において、カントが自説を①「全感性界を挙げて単なる仮象にする」ことと、②超越論的仮象が発生すること、この二つの事態を防ぐものと見なしているのではないか、という議論が為されました。

 

・まず①ですが、数学的命題のようなア・プリオリな命題が現実に適用されることは、空間と時間が純粋直観であることによって可能となるのであり、そのようなカントの説は、「思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直観において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象に過ぎない」という通俗的な観念論に人が陥ることを防ぐ立場であるとカント自身は考えています。

 

・次に②ですが、カントは、自説を「純粋理性そのものに宿り、純粋理性に源泉をもつ仮象」である超越論的仮象をも防ぐ立場と見なしています。というのも、そのような超越論的仮象は、理性を経験の限界を超えて使用するために生じるものであり、物自体と現象とを区別するカントの説においてはそのような仮象は生じ得ないからです。

 

物の実在性を否定しない観念論 

・注3の7段落で、カントは自説を「超越論的観念論」あるいは「批判的観念論」と呼び、デカルトの「経験的観念論」とバークリーの「神秘的、陶酔的観念論」と区別しています。
デカルトにせよバークリーにせよ、それらの観念論は物の実在性それ自体を懐疑・否定する観念論です。それに対し、カントの観念論は、我々の認識する対象は物自体ではなく、我々に固有な認識能力によって認識される現象に過ぎないということを主張する観念論です。その意味において、カントの立場は物の実在性を否定する観念論とは区別されます。

 

・加えて、カントは、自らと異なる観念論として、「実在する物(現象ではなくて)を単なる表象に変える説」と「あべこべに単なる表象を物に仕立てる」説という2種類の観念論を挙げています。
 前者は、実在する事物を表象と見なすという点において、バークリーのような観念論と考えられるのに対し、後者は、単なる思惟の産物に過ぎないものを実在するものと見なすという点において、理性を超越的に使用するライプニッツのような合理主義哲学者ではないかと考えられます。
 カントは、自らの批判的観念論がこうした二つの観念論を抑止することを可能にすると考えています。

 

観念論ではなく認識論?

・また今回の読書会では、こうしたカントの批判的観念論は、物の実在性を否定していないという点において、そもそも観念論と呼ぶべきではなく、むしろ認識論と呼ぶべきではないか、という指摘が為されました。というのも、カントの観念論は、あくまで認識能力それ自体の批判を主眼としている以上、存在論から区別されるという意味において、認識論という名称の方がより適切ではないかと考えられるからです。

(このことに関連して、たとえばカント事典によれば、認識論という名称は19世紀の20年代から30年代にかけて普及した名称であると説明されており、したがって、カントが活躍している時代には認識論という名称が一般的なものではなかったと考えられます(p. 402))

 

第十四節と第十五節の論理構造

・「第二章 純粋自然科学はどうして可能か」の第一四節と第十五節は以下のような論理構造になっています。

①自然とは「物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在である」(前提)。
②そのような自然が、仮に物自体の現実的存在であるとするなら、我々はそれをア・プリオリにもア・ポステリオリにも認識することが出来ない(主張)。
③そのような自然をア・プリオリに認識できない理由の提示(主張の根拠)
④そのような自然をア・ポステリオリに認識できない理由の提示(主張の根拠)

 

次回は、第二章の第十五節から読んでいきたいと思います。

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

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縮刷版 カント事典

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本読書会について

 こんにちは、運営のHです。

 本読書会も次回で19回目を迎えます(2019年2月現在)。これもひとえに、参加くださっている参加者のみなさまのおかげです。いつもありがとうございます。

kantodokusyokai.hatenablog.com(カント哲学の大まかな枠組みに関しては上のエントリーを参考にしてください)

 

 本読書会では、同学の学生はもちろんのこと、社会人の方も参加されており、比較的開かれた雰囲気で議論することができているように思います。
 この記事では、カント『プロレゴメナ』読書会がどのような読書会であるのかについて、あらためて説明したいと思います。参加を検討される際の参考にしてください。

 

いま読んでいる本と参考図書について

 現在読んでいるのはカントの『プロレゴメナ』ですが、岩波文庫のものを読んでいます。ときどき参加者の方が英訳を参照されることもありますが、基本的に邦訳を中心として読み進めており、したがってドイツ語ができる必要はありません。もし参加される場合は、この岩波文庫の『プロレゴメナ』を購入してもらう必要があります。また、参考図書として、本読書会では、『カント事典』(弘文堂)を多用しています。本読書会に参加するにあたって必ず購入しておかなければならないというわけではありませんが、入手していたほうが議論の内容を把握しやすいかもしれません。

一回の読書会で進む速度と進行形式

 一回の読書会で進む速度としては、だいたい一回の読書会につき、数ページほど読み進めていきます。また進行形式としては、まず前回の議論の内容について主催者が軽く触れたあと、一段落分を主催者が朗読します。朗読したのち、朗読された箇所について参加者同士で議論を深めていきます。そしてその段落についての議論があらかた終わったら、次の段落をまた別の人が朗読し、同じように議論を深めていきます。だいたい以下のような感じです。

 

議論の導入

一段落を朗読

その段落について議論する

もう一段落を朗読

その段落について議論する

 

 このとき、議論は、構文把握と内容の理解という二つの観点から構成されます。構文把握に関していうと、たとえば「この指示語は何を指しているのか」「この逆接の接続詞はどこまでの内容にかかっているのか」などが議論されます。内容の理解に関していうと、たとえば「「もし時空が観念であるならば、そのような時空を前提とした感性的表象は仮象に他ならない」とはどういう意味か」「ここで用いられている「直観」とは何のことか」など、議論の意味内容に踏み込んで議論がなされます。

 本読書会では、この二つの観点から議論を行い、『プロレゴメナ』の内容をより立体的に理解し、ひいてはカントの哲学の全体、あるいはカントを通して西洋哲学史の流れについての理解を深めていき、あるいは哲学という学問において議論するとはどういうことなのかについて、実際に議論することを通して学んでいきます

平均的な参加者の人数と参加の流れ

 いま現在の参加者の数は平均して3〜5人ほどです。また、実際の参加に至る流れは以下のようなものです。 

①参加者希望者が当アカウント(@w97SaO1eIQp2G56)にDMを送る

②当アカウント(@w97SaO1eIQp2G56)から参加希望者にカント『プロレゴメナ』読書会のグループラインの招待
が送られるので、それに参加する

③グループLINEの内部で行なっている日程調整に記入してもらう

④日程当日に読書会が開催される

日程間隔 

 日程間隔としては、だいたい10日に一度ほどの頻度を予定しています。ときに主催者の都合で数週間ほど日程が空いてしまうときもありますが、もしそのあいだ代わりに会を開催したいという方がいらっしゃれば、開催していただいても構いませんし、むしろそちらの方が主催者としては嬉しいです(ごく個人的には、主催者の予定・都合とは関係なく10日に一度の頻度でコンスタントに会が開催されるのが理想です)。

 

時間帯とオンオフ兼用

 時間帯は、平日と日曜はだいたい18時から20〜21時まで、土曜は朝の10時から昼の12時半ぐらいを目安にしています。が、もし時間帯の変更を希望な方は仰ってくれれば対応できるので、気軽に申し付けてください。
また、本読書会では、オンラインとオフライン兼用で会を開催しています。オフラインでは中央大学に集まりますが、LINEを介してオンライン参加も可能です。

哲学の知識は必要か

 哲学の知識が一定程度あったほうがいいとは思いますが、『哲学用語図鑑』(プレジデント社)を通読したことがあるといった程度の知識さえあれば大丈夫だと思います。すくなくとも、ハードコアなカントの専門家でなければ議論についていけないということはないと思います。現に主催者はカントを専門的に研究している院生などではなく、単なる哲学専攻の学部生です(次年度でB2になります)。人文科学関係の本をある程度読みこなせるだけの教養・知性・論理的思考能力さえあれば大丈夫だと思います。

ハードルが高いのですが…

 なぜこういう書いているかというと、「ハードルが高いんだけど…」と周囲から言われることが割とあるからです。おそらく、ブログに記載しているレポートのせいでそう思われるのでしょう…。

 あくまで主催者個人の感覚としては、人数としてもちょうどよく、誰か一人が場を占有することもなく、また目の前にテクストを精緻に読解することが優先されるという点で、比較的参加しやすい読書会だと思っています。

 
 ひとまず基本的な情報としては上述のようなものになると思います。何か分からない点がありましたら、個別に当アカウント(@w97SaO1eIQp2G56)に尋ねてもらえればと思います。

プロレゴメナ (岩波文庫)

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縮刷版 カント事典

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カント哲学に関する資料(初学者向け)

後期の演習で、カント哲学に関する大まかな発表原稿を作りました。所々図を折り交えた資料になっているので、比較的とっつきやすいカントに関する資料になっていると思います。よろしければご笑覧ください。

 

www.dropbox.com

第14回と第15回(2) 絶対空間と主観の形式

この記事は前回の記事の続きです。

 

kantodokusyokai.hatenablog.com

 

 

純粋かつア・プリオリな直観が要請される二つの例

・第十二段落では、実際の幾何学の問題において、純粋かつア・プリオリな直観が必要されるということ、そして、その直観が空間と時間に他ならないことが述べられています。そうした幾何学の例は主に以下の二つです。


①「二個の図形が全等である」ことの証明は、二つの図形が重なり合うことに帰する。ゆえに、その証明は、直観に基づく総合的命題に他ならない。また、もしその証明がかかる直観に基づくなら、その直観は純粋かつア・プリオリなものでなければならない。というのも、もしかかる直観が経験的な直観であるならば、その命題の偶然的に他ならないからである。


②全一の空間は三次元を持ち、それ以上の次元を持つものではないが、これは、一点に三本の直線より多くの直線が互いに直角に交わらないという命題に依っている。だが、この命題はア・プリオリな直観に基づいている。したがって、空間・時間の表象を前提とすることで初めて先の命題が成り立つ。

 

無限の空間と時間、超越論的演繹

   今回の読書会では、本節における「空間および時間の表象は、直観にのみ属し得るものであり、その限りにおいてそれ自体なにものによっても制限されていない」とカントが述べている箇所について、疑義が提示されました。もっと言うと、空間と時間とは概念的に推論されるものではなく、むしろ主観の形式であるということが、なぜ空間と時間が無制限(=無限)なものであることを帰結するのかについて、疑義が提示されました。


・同節でカントは、純粋数学の根底にはア・プリオリな純粋直観があり、またそれは数学を確然的な綜合的命題にすると述べると同時に、そのことと関連して、『純粋理性批判』で行なった「超越論的演繹」が純粋数学の可能性を説明すると述べています。

 つまり、純粋数学は、一方で純粋直観に基づき、他方で超越論的演繹によってその可能性が説明されるのだとカントは考えています。いわば、純粋数学は二つの仕方で捉えられている(?)と言えるでしょう。

 

・反対に、もし純粋数学が純粋直観に基づくことなく物自体として現れ、そして超越論的演繹が行われないならば、純粋数学の可能性は認められるかもしれないが、その根拠を洞察することは不可能である、とカントは述べています。

 

カントにとって、演繹とは権利の正当性を示す証明のことである

・カントが「演繹」という概念を用いる場合、それは「前提とされる一般命題から特殊命題を導出する論理的推論方法」のことではありません。こうした「演繹」概念について、カント事典では以下のように説明されています。

 

カントの演繹概念は彼の時代の法学者の慣行に由来する。すなわち、当時は訴訟事件における事実、とりわけ或る物が占有されるに至った事実的な経過に関する事柄は「事実問題(quid facti)」と呼ばれていたのに対して、「正当性(Legitimiät)」、つまり占有を所有たらしめる権利に関する事柄は「権利問題(quid juris)」と呼ばれ、そうした正当性を示す証明が「演繹」であった。(p. 39)


・加えて、ア・プリオリな概念・判断を普遍的かつ必然的に経験対象に関連すると証明するような場合、つまり、経験対象に対してア・プリオリな概念・判断を適用しようとする手続きの権利を正当化する場合、その演繹は、「超越論的演繹」と呼ばれます。

 

・今回の読書会では、純粋数学の根底に純粋直観を認めず、また超越論的演繹を欠いたような場合において、純粋数学の根拠が不定であるのは何故なのかについて疑義が提示されました。

(主催者自身は、カントが「〔そのような場合においてもなお純粋数学の〕可能性はいちおう認められ得る」と言っていることから、先の二つの前提は、純粋数学可能性にではなく確然性や必然性に関わっているのだろうというふうにさしあたり考えています)

 

不一致対称物と不可識別者同一の法則

・第十三節では、空間・時間が物自体に属する規定であると信じる者に対し、カントはいわゆる「不一致対象物」の議論を持ち出して、その種の立場に反駁を試みています。

 

・そもそも、存在者の本質を巡る議論において、ある性質が全く同じ個別者が二つ存在する場合、そのような二つの個別者はその全性質の一致ゆえに、どちらにも数的な同一性あるいは個体性(individuality)を認めることが出来ない、とする立場があります。こうした「質的に同一な個別者は数的にも同一である」という命題は「不可識別者同一の法則」と呼ばれます。代表的な論者としてはライプニッツが挙げられるでしょう。たとえばライプニッツは以下のように述べています。

 

「二つの実体が完全に類似して,ただ数においてのみ(solonumelo)異なると言うのは正しくない 」
「自然の中で,二つの存在が全く同じであり,しかもそこに内的差異あるいは内的規定に基づいた差異が発見できないことは決してない 」
(野家啓一「不可識別者の同一性について」、p. 91 )


・カントは、平面図形において同一の図形は置換可能だと述べる一方で、球面図形においては「内的には互に完全に一致するにも拘らず、外的関係においては差異が生じ」ると述べています。外的関係とは空間的位置のことです。

 

・そして、カントによれば、内的差異は悟性によって認識することが可能ですが、この外的関係である空間的位置は、あくまでも直観によって認識されるものであるため、「空間および時間を我々の感性的直観の単なる形式に格下げするのには、それ相当の根拠がある」のだとカントは述べています。


・同様のことを「左手と(鏡の中の)右手」の関係を例にカントは述べています。カントによれば、左手と(鏡の中の)右手は内的には同一でありながら外的関係においては異なっており、両者は単に空間的位置によってのみ区別されると見なされます。

 

・また、感性的直観の形式である空間において、その部分である個別の空間は、その全体であるところの全一の空間との関係においてのみ部分として存在することが可能であると述べています。

 つまり、カントはここで、空間内部における関係もまた、同様に外的な全一の空間によって規定されるというふうに、空間における部分と全体との関係についても同種の論理を適用しています。

(この箇所はまだあまりよく分かっていないので、踏み込んだことは言えないのですが)

 

カントにおける空間概念の変遷

・注意すべきは、ここでカントが、「空間と時間は物自体にではなく我々の主観に属する形式に他ならない」と論証するために「不一致対象物」の例を取り上げているという点です。

 というのも、カントは1768年の論文『空間における方位の第1根拠』において、同様に不一致対象物について議論を行なっていますが、その論文において、カントの目的はニュートンの絶対空間を証明することです。

 つまり、不一致対象物(右手と左手)の議論によって、カントは、一方で空間と時間が物自体にではなく感性に属す形式に他ならないことを、他方でニュートンの絶対空間が正しいということを証明しようとしています。ですが、素朴に解釈するなら、空間が主観の形式でありながら、かつ絶対空間であるということは、どこか矛盾を孕んでいるような印象を与えます。


・当時、空間に対する代表的な立場として二つの立場がありました。

 それはライプニッツ の立場とニュートンの立場です。あえてざっくりと言うなら、「空間は神が世界を知覚するための感覚器官だ」と見なすニュートンは、空間と時間を神の創造とは別に存在する実体であると見なします。

 

・対して、ライプニッツは、それでは神の能力が貶められるとして、空間を同時に存在するもの同士の関係、時間を継起する事物の関係と見なし、いわば空間と時間が予め神の創造より以前に存在する実体ではなく、神の創造によって創造された事物同士の関係性に他ならない、と見なします。
    このような議論を受けて、カントは『空間における方位の第1根拠』で、不一致対象物の存在によってニュートンの絶対空間を証明しようとします。先ほども述べたように、不一致対象物は、内的な性質によっては区別できないが、外的な空間位置によって区別される二つの個別者のことです。

 

・もしそのような不一致対象物が存在するならば、ニュートンが述べるように事物同士の関係から独立した空間が存在していなければならず、それゆえにニュートンの絶対空間は存在する──カントはこのような理路を通じてライプニッツの空間認識を否定し、ニュートンの絶対空間を支持しています。興味深いことに、1768年論文を書いた二年後に、カントは『感性界と知性界の形式と原理』において絶対空間の存在を否定しています。

   ともあれ、不一致対象物に関する議論は、カントにおいて二つの方向性を持ったものではないか、とさしあたり提起することは可能であるように思います。


参考文献
中島義道(1978):「カントと絶対空間 1768年論文をめぐって」科学基礎論研究、13巻4号、pp. 159-162(https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron1954/13/4/13_4_159/_pdf/-char/ja)
野家啓一(1976):「不可識別者の同一性について」科学哲学、9巻、pp. 91-105(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj1968/9/0/9_0_91/_pdf)

内井惣七(2006):「ライプニッツ=クラーク論争から何を読みとるか」科学哲学科学史研究、1号、pp. 1-12(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56980/1/uchii.pdf)
加藤尚武編(2007):『哲学の歴史 7巻』中央公論新社
有福考岳編(2014):『カント事典』弘文堂

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

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縮刷版 カント事典

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