第21回 そもそも、カントが考える「自然」とはどのようなものであるのか?

 今回は「超越論的主要問題」の第二章「純粋自然科学はどうして可能か」の第十四節から第十六節までを読み進めました。ページ数で言うと、岩波版のpp. 91-95です。
 次回は、第一七節から読みたいと思います。

 

  

第14節における二つの主張

・14節において、カントは大きく分けて二つの主張をしています。
①自然とは「物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在」のことである。
②仮に自然が物自体の現実的存在だとすると、それはア・プリオリにもア・ポステリオリにも認識不可能である(ゆえに、自然は現象の現実的存在である)

 

カントにとって「自然」とは何か

・カント事典によれば、カントは自然は二通りの仕方で考察しています。
(a)「質料的な意味における」自然、あるいは「形相的な意味における自然」
(b)それ自身で「自己目的的」にある事物の総体としての自然、みずからをみずからで有機的に機制づけていく事物のあり方としての自然。

 

 『純粋理性批判』、あるいは『プロレゴメナ』においては、主に(a)の自然が主題的に考察されます。(b)の自然は主に『判断力批判』において主題的に考察されます

 

・(a)の自然において、前者は「現象の総体」と呼ばれ、後者は前者がそのもとにおいて可能となるような「規則の総体」と呼ばれます。
 ここで重要なことは、カントが、自らの考える自然を感性的に知覚される山川草木と区別しているところです。これは、カントが自然をあくまで「普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在」と規定していること関係しています。たとえば、『純粋理性批判』においてカントは以下のように述べています。

 

自然とは、諸現象が、その現存在からいって、必然的な規則、つまり法則にしたがって〔統一的に〕連関づけられていること [B 263]

 

 では、この普遍的法則とはどのようなものでしょうか。上述の規定を考慮するなら、それはさしあたり「諸現象を統一的に連関づけるもの」と考えられます。 

 

 ところで、14節の「物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在」という自然の規定は、16節では「物一般の現実的存在の規定の合法則性」と言い換えられています。「合法則性」とは何でしょうか。
 カント事典によれば、「合法則性(Gesetzmässigkeit)」は悟性の「立法」と関係しています。悟性は自然の諸法則の源泉であり、また、そのような諸法則はあくまで純粋悟性概念(カテゴリー)によって形式的に統一されます。

 このことから、合法則性とは、カテゴリーによって自然の現象が形式的に可能とされることを指し、また 、普遍的法則とは、自然の現象を形式的に可能とするカテゴリーに他ならないと考えられます。

  それゆえ、自然とは、「カテゴリーに従って規定される物の現実存在」であると言い換えることができます。


自然が「物自体の現実的存在」ではない二つの理由

ア・プリオリな認識の不可能性について、カントは以下のように述べています。

 

いったい物自体に何が属しているのかを、我々はどうして知っていると言えるのだろうか、このことを知るには、我々が物に関して持つところの〔主語〕概念の分析(分析的命題)によるのでは、まったく不可能だからである

 

 仮に自然が物自体の現実的存在だとするなら、その物に属する何かは、我々の悟性に従うのではなく、むしろ我々の悟性がその物に従わなくてはなりません。というのも、その場合の自然は、我々の悟性的な認識の如何に関わらず存在するものだと考えられるからです。

 しかしその場合、物自体は悟性的な認識に対して先立っていることから、悟性に由来するカテゴリーは物自体から与えられることになります。ですが、悟性的な認識があらかじめ与えられた物に依存するならば、そのような認識は、経験に依存する認識と見なされてしまいます。
 よって、自然が物自体の現実的存在であるならば、それをア・プリオリに認識すること不可能であるとカントは考えます(わたし自身もまだ理解があやふやなので、確たることは言えませんが)。

 

・ア・ポステリオリな認識の不可能性について、カントは以下のように述べています。

 

もし経験が、物の現実的存在を支配する法則を私に教えるということになると、これらの法則は──物自体に関する限り、──これまた私の経験のそとで必然的に物自体に属せばならないだろう。ところで経験が私に教えるのは、何が現実的に存在するのか、またそれはどのような仕方で存在しているのかということであって、そのものが必然的にそうだあり、それ以外のものであってはならないということではない。

 

 仮に自然が物自体の現実的存在であるなら、そのような自然の法則は経験を超えた普遍的・必然的なものでなければなりません。しかし、経験はあくまで特殊的・偶然的なものであることから、経験はあくまで物自体の本性を認識することはできない、そのようにカントは考えています。

 

第15節の論理構造

・第15節は以下のような論理的な構造を持っています。括弧内の接続詞は、論理的なつながりを強調するために筆者が付け加えたものです。

 

①我々は純粋な自然科学を所有している。
(そして)
②このことは、自然の予備学である一般自然科学について考察するだけで容易に明らかとなる。
(というのも)
③一般自然科学は数学や論理的原則に基づくから。
(だが)
④自然認識は運動・不可入性・惰性等の純粋ではない要素が含まれる。そのため、自然認識は純粋自然科学と呼ぶことができない。
(加えて)
⑤自然認識は外的感官の対象にだけ関係するため、一般的自然科学と呼ぶことは出来ない。
(しかし)
⑥一般的な物理学には「実体は常住不変」といった普遍的な命題が存在する。
(ゆえに)
⑦純粋自然科学は存在する
(したがって)
⑧問題は「純粋自然科学はどうして可能か」に限られる。

 

 この節の主張は⑧、すなわち「問題は「純粋自然科学はどうして可能か」に限られる」という箇所です。その⑧の根拠は①と⑦ですが、この2つは同じ主張の言い換えとなっています。そして、②〜⑤は①=⑦の根拠となっています。このことから、本節の論理構造を図示するならば、おおよそ以下のようなものになります。

 

f:id:kantodokusyokai:20190323170451j:plain

第15節の論理構造(「→」は帰結、「+」は付加、「=」は解説、「⇝」は転換を意味する)

 

客観を規定する、経験の一切の対象を総括する「自然」

・第十五節で問いの所在を限定したのち、第十六節でカントは、以下の二点を前節の議論に付け加えています。

①自然とは、「物が普遍的法則に従って規定されている限りでの、物の現実的存在」であるのみならず、「客観〔対象〕を規定する」、「経験の一切の対象の総括(totality)」である。

②本章が主題とする自然認識はア・プリオリに可能であり、またたとえ経験に先立つにせよ、しかしその実在性は経験によって実証せられ得る」

 

・まず①に関して。もし仮に自然が「客観〔対象〕を規定する」、「経験の一切の対象の総括(totality)」ではないなら、そのような自然の認識は「概念に頼らざるを得ない」。というのも、そのような自然は「経験の対象になり得ないような物」であるからだとカントは述べています。

 このことから、「客観〔対象〕を規定する」、「経験の一切の対象の総括(totality)」としての自然は、さしあたり経験の対象になり得るような物と解すことできます。

 

・加えて、概念は個別的・直接的な対象と関わる直観とは異なり、普遍的な対象に関わることから、このような概念が「実際に対象に関係する」のか、あるいは「単なる思惟の所産に過ぎない」のかは決定することができません。このことを、カントは「概念の実在性〔…〕は決定され得ない」と言い換えています。

  カント事典によれば、「実在性(Realität)」とは以下のような概念です。

 

「実在性」は「もの」が現実存在するための不可欠な条件であり、「もの」は、必ずこれこれの本質を持つものとしてある、何ものでもないようなものは存在しない。〔…〕「実在的定義」は、ものの可能(possibilis)であることを示すのであるが、それはまたいわゆる可能でしかない可能的世界というような意味でもない。むしろ、どの可能も現実存在への努力においても見られるのである(p. 215)

 

 このように、実在性は「「もの」が現実存在するための不可欠な条件」のことを指しています。

 加えて、カント事典によれば、何らかの概念・表象が実在性を持つということは、「当該の表象が対象への関係としての妥当性(Gültigkeit)をもつ、言い換えれば内容(Inhalt)をもつ」ことであり、したがって概念や表象は「対象が与えられること」によって実在性をもつというふうに考えられます。

 

まとめ

・上述の議論をまとめるなら、第十四節から十六節までの議論は、以下のようなものとして考えることができます。

 

 カントは、一方で自然を「カテゴリーによって規定される限りでの物の現実的存在」とみなし、他方で「経験の一切の対象の総括」とみなしています。

 前者によれば、自然は、あくまでもカテゴリーに従う限りにおいてア・プリオリに認識することができるのであり、純粋自然科学はこのような自然のみを対象とするために可能と見なされます。加えて、カテゴリーはそもそも思惟の形式であることから、そのような自然は、物自体ではなく現象の現実的存在であると見なされます。

 しかし、そのような自然科学は、実際の対象と関係することによって初めてその実在性が認められます。というのも、もし仮に純粋自然科学の対象が概念的にのみ認識されるならば、そのような認識は、神を対象とするような超自然的認識と何ら変わらないからです。ゆえに、純粋自然科学は、一方で思惟の形式であるところのカテゴリーに従いながら、他方で個々別の対象に適用されることが可能な総括(totaliry)としての自然を対象としなければなりません。

 このことから、そのような自然を対象とする自然認識は、ア・プリオリに可能であり、またたとえ経験に先立つにせよ、しかしその実在性は経験によって実証せられ得る」ものでなければならないと考えられます(この点については、きちんと議論を理解できているかどうか自信がないので、もし別の解釈があるよという方は言っていただけると嬉しいです)

 

客観についての若干の補足

・ところで、カントは「客観=対象(Objekt)」という概念に対して独自の意味規定を行なっています。

 通常であれば、「客観」は「主観」と対立し、各主体の主観的な認識から独立したもののことを指します。しかし、カントにとって、我々が認識するのは物自体ではなく現象に他なりません。とするなら、カントにとって、そのような現象がいかにして客観性を持ちうるのかが問題となります。カントは、客観性を持ったこのような現象のことを「超越論的客観(対象)」と呼んでいます。

 

現象はわれわれに直接的に与えられうる唯一の対象であって、そこにおいて直接的に対象に関係するものが直観である。しかるにこれらの現象は物自体にではなく、それら自身再び自らの対象を有するところの表象に過ぎない。この対象はそれゆえ、われわれによってもはや直観されえず、したがって非経験的な、すなわち超越論的な対象=Xと呼ばれうるだろう[A 108.f]

超越論的客観は何らの実在的客観あるいは与えられた物でもなく、それに対する関係において現象が統一をもつところの概念である。なぜなら、現象には何か或るものの現象しか知らぬにせよ、対応していなければならないからである[Refl. 5554]

 

(ここら辺の議論はカントの議論において恐らくかなり込み入った箇所であるため、断定はできませんが、さしあたりカントにおける「客観」の概念が複雑なコンテクストに置かれているという点だけを本稿では指摘して、踏み込んだ判断は保留します)

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

プロレゴメナ (岩波文庫)

 
縮刷版 カント事典

縮刷版 カント事典