第14回と第15回(2) 絶対空間と主観の形式
この記事は前回の記事の続きです。
kantodokusyokai.hatenablog.com
- 純粋かつア・プリオリな直観が要請される二つの例
- 無限の空間と時間、超越論的演繹
- カントにとって、演繹とは権利の正当性を示す証明のことである
- 不一致対称物と不可識別者同一の法則
- カントにおける空間概念の変遷
純粋かつア・プリオリな直観が要請される二つの例
・第十二段落では、実際の幾何学の問題において、純粋かつア・プリオリな直観が必要されるということ、そして、その直観が空間と時間に他ならないことが述べられています。そうした幾何学の例は主に以下の二つです。
①「二個の図形が全等である」ことの証明は、二つの図形が重なり合うことに帰する。ゆえに、その証明は、直観に基づく総合的命題に他ならない。また、もしその証明がかかる直観に基づくなら、その直観は純粋かつア・プリオリなものでなければならない。というのも、もしかかる直観が経験的な直観であるならば、その命題の偶然的に他ならないからである。
②全一の空間は三次元を持ち、それ以上の次元を持つものではないが、これは、一点に三本の直線より多くの直線が互いに直角に交わらないという命題に依っている。だが、この命題はア・プリオリな直観に基づいている。したがって、空間・時間の表象を前提とすることで初めて先の命題が成り立つ。
無限の空間と時間、超越論的演繹
今回の読書会では、本節における「空間および時間の表象は、直観にのみ属し得るものであり、その限りにおいてそれ自体なにものによっても制限されていない」とカントが述べている箇所について、疑義が提示されました。もっと言うと、空間と時間とは概念的に推論されるものではなく、むしろ主観の形式であるということが、なぜ空間と時間が無制限(=無限)なものであることを帰結するのかについて、疑義が提示されました。
・同節でカントは、純粋数学の根底にはア・プリオリな純粋直観があり、またそれは数学を確然的な綜合的命題にすると述べると同時に、そのことと関連して、『純粋理性批判』で行なった「超越論的演繹」が純粋数学の可能性を説明すると述べています。
つまり、純粋数学は、一方で純粋直観に基づき、他方で超越論的演繹によってその可能性が説明されるのだとカントは考えています。いわば、純粋数学は二つの仕方で捉えられている(?)と言えるでしょう。
・反対に、もし純粋数学が純粋直観に基づくことなく物自体として現れ、そして超越論的演繹が行われないならば、純粋数学の可能性は認められるかもしれないが、その根拠を洞察することは不可能である、とカントは述べています。
カントにとって、演繹とは権利の正当性を示す証明のことである
・カントが「演繹」という概念を用いる場合、それは「前提とされる一般命題から特殊命題を導出する論理的推論方法」のことではありません。こうした「演繹」概念について、カント事典では以下のように説明されています。
カントの演繹概念は彼の時代の法学者の慣行に由来する。すなわち、当時は訴訟事件における事実、とりわけ或る物が占有されるに至った事実的な経過に関する事柄は「事実問題(quid facti)」と呼ばれていたのに対して、「正当性(Legitimiät)」、つまり占有を所有たらしめる権利に関する事柄は「権利問題(quid juris)」と呼ばれ、そうした正当性を示す証明が「演繹」であった。(p. 39)
・加えて、ア・プリオリな概念・判断を普遍的かつ必然的に経験対象に関連すると証明するような場合、つまり、経験対象に対してア・プリオリな概念・判断を適用しようとする手続きの権利を正当化する場合、その演繹は、「超越論的演繹」と呼ばれます。
・今回の読書会では、純粋数学の根底に純粋直観を認めず、また超越論的演繹を欠いたような場合において、純粋数学の根拠が不定であるのは何故なのかについて疑義が提示されました。
(主催者自身は、カントが「〔そのような場合においてもなお純粋数学の〕可能性はいちおう認められ得る」と言っていることから、先の二つの前提は、純粋数学の可能性にではなく確然性や必然性に関わっているのだろうというふうにさしあたり考えています)
不一致対称物と不可識別者同一の法則
・第十三節では、空間・時間が物自体に属する規定であると信じる者に対し、カントはいわゆる「不一致対象物」の議論を持ち出して、その種の立場に反駁を試みています。
・そもそも、存在者の本質を巡る議論において、ある性質が全く同じ個別者が二つ存在する場合、そのような二つの個別者はその全性質の一致ゆえに、どちらにも数的な同一性あるいは個体性(individuality)を認めることが出来ない、とする立場があります。こうした「質的に同一な個別者は数的にも同一である」という命題は「不可識別者同一の法則」と呼ばれます。代表的な論者としてはライプニッツが挙げられるでしょう。たとえばライプニッツは以下のように述べています。
「二つの実体が完全に類似して,ただ数においてのみ(solonumelo)異なると言うのは正しくない 」
「自然の中で,二つの存在が全く同じであり,しかもそこに内的差異あるいは内的規定に基づいた差異が発見できないことは決してない 」
(野家啓一「不可識別者の同一性について」、p. 91 )
・カントは、平面図形において同一の図形は置換可能だと述べる一方で、球面図形においては「内的には互に完全に一致するにも拘らず、外的関係においては差異が生じ」ると述べています。外的関係とは空間的位置のことです。
・そして、カントによれば、内的差異は悟性によって認識することが可能ですが、この外的関係である空間的位置は、あくまでも直観によって認識されるものであるため、「空間および時間を我々の感性的直観の単なる形式に格下げするのには、それ相当の根拠がある」のだとカントは述べています。
・同様のことを「左手と(鏡の中の)右手」の関係を例にカントは述べています。カントによれば、左手と(鏡の中の)右手は内的には同一でありながら外的関係においては異なっており、両者は単に空間的位置によってのみ区別されると見なされます。
・また、感性的直観の形式である空間において、その部分である個別の空間は、その全体であるところの全一の空間との関係においてのみ、部分として存在することが可能であると述べています。
つまり、カントはここで、空間内部における関係もまた、同様に外的な全一の空間によって規定されるというふうに、空間における部分と全体との関係についても同種の論理を適用しています。
(この箇所はまだあまりよく分かっていないので、踏み込んだことは言えないのですが)
カントにおける空間概念の変遷
・注意すべきは、ここでカントが、「空間と時間は物自体にではなく我々の主観に属する形式に他ならない」と論証するために「不一致対象物」の例を取り上げているという点です。
というのも、カントは1768年の論文『空間における方位の第1根拠』において、同様に不一致対象物について議論を行なっていますが、その論文において、カントの目的はニュートンの絶対空間を証明することです。
つまり、不一致対象物(右手と左手)の議論によって、カントは、一方で空間と時間が物自体にではなく感性に属す形式に他ならないことを、他方でニュートンの絶対空間が正しいということを証明しようとしています。ですが、素朴に解釈するなら、空間が主観の形式でありながら、かつ絶対空間であるということは、どこか矛盾を孕んでいるような印象を与えます。
・当時、空間に対する代表的な立場として二つの立場がありました。
それはライプニッツ の立場とニュートンの立場です。あえてざっくりと言うなら、「空間は神が世界を知覚するための感覚器官だ」と見なすニュートンは、空間と時間を神の創造とは別に存在する実体であると見なします。
・対して、ライプニッツは、それでは神の能力が貶められるとして、空間を同時に存在するもの同士の関係、時間を継起する事物の関係と見なし、いわば空間と時間が予め神の創造より以前に存在する実体ではなく、神の創造によって創造された事物同士の関係性に他ならない、と見なします。
このような議論を受けて、カントは『空間における方位の第1根拠』で、不一致対象物の存在によってニュートンの絶対空間を証明しようとします。先ほども述べたように、不一致対象物は、内的な性質によっては区別できないが、外的な空間位置によって区別される二つの個別者のことです。
・もしそのような不一致対象物が存在するならば、ニュートンが述べるように事物同士の関係から独立した空間が存在していなければならず、それゆえにニュートンの絶対空間は存在する──カントはこのような理路を通じてライプニッツの空間認識を否定し、ニュートンの絶対空間を支持しています。興味深いことに、1768年論文を書いた二年後に、カントは『感性界と知性界の形式と原理』において絶対空間の存在を否定しています。
ともあれ、不一致対象物に関する議論は、カントにおいて二つの方向性を持ったものではないか、とさしあたり提起することは可能であるように思います。
参考文献
中島義道(1978):「カントと絶対空間 1768年論文をめぐって」科学基礎論研究、13巻4号、pp. 159-162(https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron1954/13/4/13_4_159/_pdf/-char/ja)
野家啓一(1976):「不可識別者の同一性について」科学哲学、9巻、pp. 91-105(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj1968/9/0/9_0_91/_pdf)
内井惣七(2006):「ライプニッツ=クラーク論争から何を読みとるか」科学哲学科学史研究、1号、pp. 1-12(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56980/1/uchii.pdf)
加藤尚武編(2007):『哲学の歴史 7巻』中央公論新社
有福考岳編(2014):『カント事典』弘文堂
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