第12回 四つに分類される超越論的主要問題

今回は、「一般問題」の第五節「純粋理性に基づく認識はどうして可能か」の十段落から十二段落、そして先験的主要問題(以下、「主要問題」)の第一章「純粋数学はどうして可能か」第六節から第八節までを読み進めました。ページ数で言うと岩波版のpp. 62-68です。
 次回は第九節から読み進んでいくことになります。

 

 
プロレゴメナ』に特有な方法

・前回も十段落は読みましたが、改めて繰り返すと、「条件づけられたものや根拠づけられたものから出発して原理へと進む」ような、「背進的方法 (regressive Methode)」あるいは「発見の方法」とも呼ばれる分析的方法に従うならば、純粋理性に基づくア・プリオリな認識はすでに二つ存在しています。

 そして、それは純粋数学と純粋自然科学です。何故なら、この両学は「対象を直観において示す」ことができるからであるとカントは述べています(『カント事典』,p.308)。

 

・対して、「原理から帰結へ、あるいは単純なものから合成されたものへと進む」ような、「前進的方法 (progressive Methode)」とも呼ばれる綜合的方法は、考察を「抽象的に (in abstracto)」概念から導出します(同頁)。

 こうした具体性・抽象性を示す副詞は、『プロレゴメナ』においてラテン語で表記されており、両学の相違する点としてカントは恐らくこれらの副詞を用いていますが、では分析的方法における対象の提示はなぜ「具体的」であるのか、そして「具体的に示す」とはどういったことなのか、このことについて、今回の読書会では議論が為されました。
 

直観と概念の違いについて

・カント事典によれば、カントの認識論において、認識は「直観と概念」という二つの要素から成っています。直観が対象に直接的に関係する個別的表象であるのに対し、概念は「多くの対象へ間接的に(徴表を介して)関係する普遍的な表象」です。どういうことでしょうか。

 

・たとえば、特定の時空内に存在する認識主体が目の前の「このコップ」を知覚するとき、この知覚された対象は、何らの媒介抜きに知覚されているという意味において「直接的」に、また特定の認識主体に知覚されているという意味で「個別的」に知覚されたものであり、カントにおいては「直観」であると考えられます。

 反対に、言語によって表現される「コップ」という名詞は、現実において存在するどのようなコップにも等しく妥当し、そして特定のコップの生成消滅とは無関係に存在しています。その意味で、言語によって表現される「コップ」という名詞は、個別的に存在するもの(=個別者)に対して普遍的に存在するもの(=普遍者)として存在していると考えられます。

 こうした言語によって表現される「コップ」のような名詞が、カントにおいては「概念」であるとさしあたりは考えられます。
 

カントにおける現存在(Dasein)とは何か

・十段落では、「この認識〔純粋数学〕の真理」と「認識と客観との一致」あるいは「この認識の現実的存在」が言い換えになっており、今回の読書会ではこのことに着目がなされました。また、ここで記述されている「現実的存在」は、「現存在 (Dasein)」ではないかとする指摘が為されました

 

・カント事典によれば、「現存在 (Dasein)」は「実存性(Existenz)」や「現実性( Wirklich-keit)」とほぼ同義であり、それは、物が何であるかに関わる「本質的存在 Wassein」とは異なり、人・物・出来事がある特定の時空間的場所(Da)を占めているという在り方を意味しています。

 したがって、あるものが現に存在していないが存在し得るものであるという場合、そのものは現存在ではないと考えられます(『カント事典』,p. 159)。

 

・また、カントは自らのカテゴリー表において、現存在を様相のカテゴリーであると見なしています。様相はアリストテレスに由来する概念であり、アリストテレスにおいてそれは命題の「可能性・不可能性・必然性」などに関わる概念でしたが、カントにおいて、様相は事物に関わる概念と見なされています。

 そして、カントはこうした現存在を感性によって認識されるものというふう考えており、その意味で、「直観」と「現存在」は関連する概念であるとさしあたりは考えられます。
 

プロレゴメナ』における四つの主要な問題

・十一段落において、カントは形而上学へと向かおうとする人間本来の「素質 Naturanlage」を考慮した上で、超越論的哲学における主要な問題を以下の四つに分類しています。

 

純粋数学はどうして可能か
②純粋自然科学はどうして可能か
形而上学一般はどうして可能か
④学としての形而上学はどうして可能か 
 

・「一般問題」全体の趣旨をもう一度確認しておくと、「いったい〔学としての〕形而上学は可能か」を問うに際し、分析的方法に従う『プロレゴメナ』において、カントは、問いを「純粋理性にもとづく認識はどうして可能か」という問いへと変形します。

 更にその問いをより厳密に表現したものがア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」という問いです。そして、その上でその問いを分類し、順序づけられたものが、「主要問題」で論じられるこの四つの問いです。
 

人間的理性は運命として形而上学を求めざるを得ない

・カント事典によれば、人間は物の使用に関わる「技術的素質」や他者を自らの目的のために利用する「実用的素質」、そして自由の原理のもとで自他に対して行為する「道徳的素質」などを有しているとカントは考えていますが、同様に、人間は形而上学に対する要求」を素質として有しているとカントは考えています(『カント事典』,pp.311-312)。

 このような見方は、『純粋理性批判』の第一版の序文の冒頭において記述されている「人間的理性の運命」とも関連していると考えられるように思います。たとえば、カントはそこで以下のように述べています。
 

「人間的理性は、経験の経過におけるその使用が不可避的であり、また同時にその使用が経験によって十分確証されている諸原則から始める。これらの諸原則を携えて人間的理性はますます高く上昇し、いっそう遠く隔たった諸条件へと向かう。しかし人間的理性は、問題はけっして決しておわることがないゆえ、このような仕方ではおのれの業務がいつでも未完結のままにとどまらざるをえないということに気づくので、そこでこの理性は、すべての可能的な経験使用を越え出るが、それにもかかわらず、普通の常識すらそれらと一致するほど信頼できると思われる諸原則へと、逃避せざるをえないと認める」

(『純粋理性批判 上』,pp. 25-26,平凡社ライブラリー

 
・この引用箇所において述べられているのは、理性の可能性の条件を批判することなく理性を使用する独断論者」の立場のことですが、カントにおいて、人間はそのように素朴に形而上学へと向かわざるを得ない存在と見なされます。
 

主要問題はなぜそのような構成で展開されるのか

・十段落の箇所が超越論的哲学における主要問題の①、②と関連するならば、十一段落は、③と④を別個の問題として提示するための段落ではないか、とする指摘が為されました。また、この①から④までの問題は、より解答することが容易なものから困難なものへ、いわばより厳密さや解答の困難さの度合いが増していく仕方で配置されている問題群ではないか、とする指摘が為されました。

 しかし、だとすれば何故このような順序で問いが考察されていくのか、特に純粋数学の次に純粋自然科学が来るのはどうしてなのか、このことについて今回の読書会では議論が為されました。
 

純粋数学にせよ純粋自然科学にせよ、カントによれば、両者は共にア・プリオリな綜合的認識」ですが、純粋数学に比べて、純粋自然科学はより我々が日常的に接している自然科学の認識とかけ離れており、その意味で、純粋数学より解答が困難なものであるとカントは想定しているのではないか、とする指摘が為されました(大意)。

 

・というのも、以前も述べたように、カントにおいて「純粋」という形容詞は経験が全く介在しないことを意味しています。そして我々が前提としている自然科学は通常「経験科学」と呼ばれており、観察や実験などの経験的な過程によってサンプルを抽出し、そしてそうしたサンプルから帰納的に何かしらの法則を導出する営みのことを指しており、そのため純粋自然科学の方がより解答が困難であると捉えられるからです。

第一章「純粋数学はどうして可能か」の導入箇所 

・「主要問題」の第六節は第一章全体の議論の導入のような役割を担っているのに対し、第七節は非常に議論が圧縮されており、読み解くのが非常に難しい節になっています。この節では議論が難航しましたが、さしあたり、本節において今回の読書会では以下のようなこと確認しました。

 

①直観には経験的直観と純粋直観とがあるということ。
②数学的な認識は、純粋直観において概念を現示するのであり、また、数学的な認識の根底に純粋直観が存在するということ。
③そして、こうしたことが「数学を可能ならしめる第一の、しかも最高の条件」であるとカントは見なしていること。
④経験的直観において、綜合的判断は経験的にのみ確実であり、そうした判断はいわば偶然的なものであるのに対し、純粋直観において、綜合的判断は「確然的に確実であ」り、そうした判断は、「純粋直観において必然的に見出され」るものである、とカントは考えているということ。

つまり、カントは両直観を確実性<>不確実性、偶然性<>必然性という二つの観点から記述しているということ。
⑤そして、綜合的判断が純粋直観から必然的に見出されるものであるため、純粋直観は「すべての経験に先立って(…)概念と不可分離的に結びついている」とカントは見なしているということ。
 

どうして「純粋数学はどうして可能か」という問いは難しいのか

・第八節では、前節の議論によって「困難は減少するどころか、むしろますます増大して」いると述べたのち、その理由として、カントは、前節の議論を引き受けることによって「純粋数学はどうして可能か」という問いが「何か或るものをア・プリオリに直観することはどうして可能か」という問いに変形されるからであると述べています。つまり、カントは、この議論の困難さを、八節ではア・プリオリに〔何かを〕直観する」ことの困難さとして見なしています。


・カント事典によれば、直観は感性という働きにのみ関係し、概念は悟性の働きにのみ関係します。そして、感性とは、「われわれが対象によって触発される仕方によって表象を受け取る能力(受容性)」[B 33]のことだとカントは見なしています。このように、感性はあらかじめ存在する対象を受容する能力であるため、対象をア・プリオリに直観するということには矛盾が生じてしまいます(『カント事典』,p.82)。
 
・そのような純粋直観にまつわる困難を指摘しつつ、同節においてカントは、対象の直観に関わりなく存在する概念として「対象一般の恣意だけを含むような概念」、すなわち「純粋悟性概念(カテゴリー)」について述べたのち、こうした概念が「意義と意味」を持つためには「これらの概念を何らかの直観に適用」する必要があると述べています。

 

・つまり、第八節は、一方で純粋直観の困難について指摘しつつ、他方で純粋悟性概念が意義と意味を持つためには直観に対する適用が必要であるという二つの主張を行なっています。その上で、カントは、同節の最終文で「対象の直観はどうして対象そのものに先立つことができる」のかについて問いを提起し、第九節へと議論を展開しています。

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

プロレゴメナ (岩波文庫)

 
縮刷版 カント事典

縮刷版 カント事典

 
純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー)

純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー)