第13回 純粋直観である空間と時間には感性の形式しか含まれていない
今回は、「超越論的主要問題」の第九節と第十節を読みました。ページ数で言うと、岩波版のpp. 68−71です。大変理解に苦しむ箇所であり、そして、その分だけ重要な箇所だったと思います。 次回は第十一節から読み進めていくことになります。
- 第一章「純粋数学はどうして可能か」第九節の構造
- 直観を「物をそれ自体あるがままに表象する」と見なす立場への反駁
- 「純粋直観」とは空間と時間のことである
- 純粋直観を前提とした場合に帰結される、二つの主張
- カントにおける「形式(Form)」概念について
- では、純粋直観であり主観の形式でもある空間と時間は、純粋数学にどのように関係するのか
- いままでの議論のまとめ
第一章「純粋数学はどうして可能か」第九節の構造
・第九節は、主に三つのまとまりによって構成された節として分割できるように思います。
①カントとは異なる主張の提示し、その主張が成り立ち得ないことを論証する
②その論証を受けて自説を提示する
③そのような自説から二つの主張を導く
直観を「物をそれ自体あるがままに表象する」と見なす立場への反駁
・まず①では、カントとは真逆の立場として、直観は「物をそれ自体あるがままに表象する」と見なす立場が提示されます。このような立場は、直観を経験的直観、すなわち特定の時空内部に存在する認識主体が個別的・直接的に対象に関係する直観にだけ限定するという立場です。
・参加者の方によれば、近世以後の哲学者は、こうした立場の範例としてドゥンス・スコトゥスやトマス・アクィナスのような中世哲学者を想定しているそうです。ですが、スコトゥスやアクィナスがそのような主張をしているというより、あくまで藁人形論法的に「中世哲学者はそのような主張をしている」と近世哲学者は見なしていると捉えたほうがよい、という指摘が為されました(大意)。
・カントは、そのような立場において、「〔経験的〕直観がどうして私にこの物をそれ自体あるがままに認識させるかということがまったく理解できなくなる」と述べており、いわばそのような直観はその根拠が理解不可能であり、ゆえに、「この表象は霊感をまって初めて生じたとでも言わざるを得ない」とカントは述べています。
・カントはここで、経験的直観における総合的判断が「経験的に確実であるに過ぎない」ため、そのような直観のもとで為される判断が「偶然的」なものであるという第七節の議論を、根拠が理解不可能であるという観点から再度述べていると考えられます。
「純粋直観」とは空間と時間のことである
・①を受けて、②でカントは、「私の主観においてかかる現実的印象に先立つところの感性的形式しか含んでいない」ような直観について述べ、そのような直観は「対象の現実性に先立ち、ア・プリオリな認識として発生する」ことが出来ると述べています。そして、そうした直観のことをカントは「純粋直観」と呼びます。また次節でも述べられているように、そうした純粋直観は「空間と時間」のことです。
・英国経験論の伝統を引き継ぐヒュームにおいて、意識内容は、「知覚(perception)」と呼ばれ、その知覚は「印象(impression)」と「観念(idea)」によって構成されています。外界から直接的に受容された知覚が「印象」であり、その印象を記憶や想像によって内的に再生したものが「観念」と呼ばれます。
この観点からすれば、「現実的印象」とは、想像力(カント的に言えば構想力)を媒介とせずに特定の時空内部から直に受容されたものである、と解釈できます。
(ですが、参加者の方によれば、印象はカントにおいて独自な用法で用いられることもあるらしいので、どのような意味でカントがここで印象という言葉を記述しているかはまだ確定できません)
純粋直観を前提とした場合に帰結される、二つの主張
・次に③で、カントは、「対象の現実性に先立ち、ア・プリオリな認識として発生する」ような純粋直観を前提とした場合、二つの主張が帰結されると述べています。
それは──感性的直観のかかる形式に関係する命題だけが、感官の対象について可能であり、またこの対象に妥当するだろう、ということであり、同様にまたそれとは逆に、ア・プリオリに可能な直観は、我々の感官の対象以外の物〔例えば、物自体〕には関係し得ない
・「感性的直観のかかる形式」は純粋直観の言い換えであり、純粋直観は「時間と空間」を意味することから、「感性的直観のかかる形式に関係する命題」とは時間と空間に関係する命題(たとえば幾何学や代数学の命題)であると考えられます。
・今回の読書会では、「同様にまたそれとは逆に」は、純粋直観を前提とするという点で「同様」であり、そして前文の主張と一見して反対に見える主張を導いているという点で「またそれとは逆に」とカントは述べているのではないか、とする指摘が為されました。
・つまり、純粋直観があり得るという前提に立つならば、一方で感官の対象について可能であり、かつそれに妥当するのは時間と空間に関する命題だけであり、他方で、そうした時間と空間は、物自体のような感官の対象以外の物には関係し得ないだろう、とカントは述べています。
・カント事典によれば、純粋直観についてカントは、「そこにおいて感覚に属するものがいささかも見出されない表象を全て(超越論的な意味での)純粋と名付ける」と述べることで「純粋」を定義しています。そして「表象として、何かを思考するという作用よりも前に先行し得るものは、直観であり、それが関係以外の何物も含まないならば直観の形式である」と述べています[B 34,34f]。
つまり、思考に先行し、関係以外の何物も含んでおらず、感覚に属するものがいささかも見出されないものが純粋直観であると考えられます(『カント事典』、p. 242)。
カントにおける「形式(Form)」概念について
・また、同書によれば、純粋は「経験的」と対置され、純粋<>経験という概念対は、形式<>質料、ア・プリオリ<>ア・ポステリオリという概念対に対応しています。
したがって、純粋直観は形式しか含まないア・プリオリな直観であると考えられます(〃)。カント事典において、「形式(Form)」は以下のように説明されます。
最広義には、規定されうるものを質料、その規定を形式というが、カント独自の概念としては、一般に、経験的に与えられる多様としての質料に対し、その法則的秩序として、アプリオリにわれわれの内に見い出される根本的規定をいう(pp. 129-130)
Formが形相ではなく形式と訳されるのは、「それが本来、対象の内に(対象として)認識されるものではなく、むしろわれわれの認識の仕方・様式に属するものだから」であると考えられます(〃)。
・「規定(Bestimmung)」はdeterminatioというラテン語の独訳であり、英語で言えばdetermination、つまり「決定」とも訳されます。語源的に解釈するならば「de-」は「離れる」を意味し、「term」は「終わり」を意味するため、「境界線を設けてある事柄を終わらせる」という含意がdeterminatioにはあると考えられます(きちんと調べていないので、踏み込んだことは全く言えませんが…)。
また、「規定する」という言葉には、主に三つの意味内容が含まれています(p. 103)。
①内容を与える
②内から形成する
③他から区切られる
(「規定」の項目自体が少し要約することが難しいので、「規定」の要約は省きます)
では、純粋直観であり主観の形式でもある空間と時間は、純粋数学にどのように関係するのか
・そして第十節の一段落で、カントは、「ア・プリオリな綜合的命題の可能性が認められる」とすれば、それは、対象が感性の形式に一致するように現れ得る場合だけである、と述べており、さらに、二段落でカントは、そうした感性的直観の形式を「空間と時間」であると述べています。また、このような純粋直観すなわち空間と時間がなければ、純粋数学におけるア・プリオリな綜合的判断は不可能であるとカントは考えています。
たとえば「幾何学の根底には、空間という純粋直観があ」り、「算数学〔代数学〕は時間において単位を逐次に付け加えること」が必要であり、「純粋力学は、運動の概念を時間における表象を介してのみ成立させることができる」というふうに述べ、幾何学・代数学・純粋力学という三つの事例を例示として挙げています(純粋力学はむしろ自然学に分類されると思いますが)。
・また、空間と時間が純粋直観であるということの根拠として、カントは以下のように述べています。
空間と時間の表象は、いずれも〔純粋〕直観にほかならない。我々は物体とその変化(運動)との経験的直観から経験的なもの、すなわち感覚に属するところのものをすべて除き去っても、なお空間と時間とはあとに残るからである。それだから空間および時間は、経験的直観の根底にア・プリオリに存する純粋直観であり、従ってまた空間および時間そのものは決して除去せられ得ないのである
このようにカントは根拠を提示しますが、今回の読書会では、カントはここで素朴に自らが根拠と見なしているものを提示しているだけであり、その根拠を通じて自らの主張を論証しているとは言えないのではないか、とする指摘が為されました。
いままでの議論のまとめ
・だいぶ議論が様々な方向に及んだので、すこし議論を整理したいと思います。
「在る」ものに関わる理論的認識である純粋数学は、ア・プリオリな綜合的認識であると考えられます。というのも、純粋数学は、対象を直観において示すことが出来るからです。そのため、純粋数学は、理論的認識でありながら概念とは異なる直観によって構成されます。
・次に、カントは、そのような学の究明を通じて「何かをア・プリオリに認識する理性能力」の限界を画定しようとします。ただし、その直観は、ある特定の時空間の内部で対象と直接的・個別的に関係する「経験的直観」ではなく、「純粋直観」です。純粋直観は、数学における判断が確然的かつ必然的なものとして現れる際に、そうした判断や認識の根底に存在する直観であり、また、直接的でかつ個別的でありながらも現存在に先立ったア・プリオリな直観です。それには「感性的な形式」しか含まれていません。
すなわち、純粋直観は、たとえ感覚をすべて偽として退けたとしても、それでもなお、対象を受容する能力である感性の、その形式として数学や自然学のような学的認識の根底に存在している、とカントは考えていると言えるでしょう。
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