第20回 批判的観念論は物の実在性を否定しない
今回は、「超越論的主要問題」の第一章「純粋数学はどうして可能か」の注3と、第二章「純粋自然科学はどうして可能か」の第十四節を読み進めました。ページ数で言うと、岩波版のpp. 87-92です。
次回は、第十五節から読みたいと思います。
二つの事態を防ぐ唯一の立場
・今回の読書会では、第一章注3において、カントが自説を①「全感性界を挙げて単なる仮象にする」ことと、②超越論的仮象が発生すること、この二つの事態を防ぐものと見なしているのではないか、という議論が為されました。
・まず①ですが、数学的命題のようなア・プリオリな命題が現実に適用されることは、空間と時間が純粋直観であることによって可能となるのであり、そのようなカントの説は、「思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直観において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象に過ぎない」という通俗的な観念論に人が陥ることを防ぐ立場であるとカント自身は考えています。
・次に②ですが、カントは、自説を「純粋理性そのものに宿り、純粋理性に源泉をもつ仮象」である超越論的仮象をも防ぐ立場と見なしています。というのも、そのような超越論的仮象は、理性を経験の限界を超えて使用するために生じるものであり、物自体と現象とを区別するカントの説においてはそのような仮象は生じ得ないからです。
物の実在性を否定しない観念論
・注3の7段落で、カントは自説を「超越論的観念論」あるいは「批判的観念論」と呼び、デカルトの「経験的観念論」とバークリーの「神秘的、陶酔的観念論」と区別しています。
デカルトにせよバークリーにせよ、それらの観念論は物の実在性それ自体を懐疑・否定する観念論です。それに対し、カントの観念論は、我々の認識する対象は物自体ではなく、我々に固有な認識能力によって認識される現象に過ぎないということを主張する観念論です。その意味において、カントの立場は物の実在性を否定する観念論とは区別されます。
・加えて、カントは、自らと異なる観念論として、「実在する物(現象ではなくて)を単なる表象に変える説」と「あべこべに単なる表象を物に仕立てる」説という2種類の観念論を挙げています。
前者は、実在する事物を表象と見なすという点において、バークリーのような観念論と考えられるのに対し、後者は、単なる思惟の産物に過ぎないものを実在するものと見なすという点において、理性を超越的に使用するライプニッツのような合理主義哲学者ではないかと考えられます。
カントは、自らの批判的観念論がこうした二つの観念論を抑止することを可能にすると考えています。
観念論ではなく認識論?
・また今回の読書会では、こうしたカントの批判的観念論は、物の実在性を否定していないという点において、そもそも観念論と呼ぶべきではなく、むしろ認識論と呼ぶべきではないか、という指摘が為されました。というのも、カントの観念論は、あくまで認識能力それ自体の批判を主眼としている以上、存在論から区別されるという意味において、認識論という名称の方がより適切ではないかと考えられるからです。
(このことに関連して、たとえばカント事典によれば、認識論という名称は19世紀の20年代から30年代にかけて普及した名称であると説明されており、したがって、カントが活躍している時代には認識論という名称が一般的なものではなかったと考えられます(p. 402))
第十四節と第十五節の論理構造
・「第二章 純粋自然科学はどうして可能か」の第一四節と第十五節は以下のような論理構造になっています。
②そのような自然が、仮に物自体の現実的存在であるとするなら、我々はそれをア・プリオリにもア・ポステリオリにも認識することが出来ない(主張)。
③そのような自然をア・プリオリに認識できない理由の提示(主張の根拠)
④そのような自然をア・ポステリオリに認識できない理由の提示(主張の根拠)
次回は、第二章の第十五節から読んでいきたいと思います。
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