第14回と第15回(1) 「根源的獲得」としてのア・プリオリ

   前回と今回は、「超越論的主要問題」の第一章「純粋数学はどうして可能か」の第十一節から第十三節まで読み進めました。ページ数で言うと、岩波版のpp. 71-77です。
次回は、本論と同じくらい分量がある注の一から読み進めていきたいと思います。

 

 

第一章のおさらい

・少し前の箇所から辿り直すと、本章の課題は「純粋数学はどうして可能か」であり、そしてそれは「何か或るものをア・プリオリに直観することはどうして可能か」という問いに言い換えられました(第八節)。
    この課題は、対象そのものに先立って対象を直観するはどうして可能かという課題に等しく、仮に直観が物自体を表象するのであれば、その課題は不可能である、とカントは述べています。

 

・カントにとって、直観が対象に先立つものであるためには、直観は一切の内容を持たない感性の形式である必要があります。つまり、対象の先立つような純粋直観は、対象の側の形式であると同時に認識能力の形式であることによって、対象から先立つものと見なすことが可能となります(第九節)

(「つまり」以下の文は主催者によるやや踏み込んだ解釈です)。そして、そうした純粋直観とは時間と空間であるとカントは述べています(第十節)。


・こうした事柄を前提とした上で、第十一節でカントは、「この章の課題は、これですっかり解決されたことになる」と述べています。第十一段落の一段落の1行目から8行目の「ところで」までは、自らが本章で行なった議論を再度手短に述べている箇所であると考えられます。

 

「自発的に」と「ア・プリオリに」の言い換え関係

・8行目の「ところで」以下の議論で、カントは、空間および時間を現象にではなく物自体に属すると見なす立場に対し、再度反駁を行います。

 

「我々が物についてまだ何も知らないのに、それだからまた物がまだ我々に与えられていないのに、その物の直観がどのような性質のものでなければならないということを知るのが、どうして可能とわかるのか」(p. 72)


・与えられていないものの直観の性質を知ることは不可能であるが、もしその直観が「主観の形式的条件」であるならば、その物(この場合は現象になるのかもしれませんが)の直観がどのような性質であるのかを知ることは可能である、とカントはおそらく述べているのだと思いますが、主催者自身この箇所についてあまりよく分かっていないので、踏み込んだ言い方はできません。


・注意すべき点は、第十一節の最終文「そうすれば現象の形式であるところの純粋直観は、われわれによって自発的に──と言うのは、ア・プリオリに表象され得るからである」と述べているところです。「そうすれば」とは「空間および時間は我々の感性の形式的条件にすぎないし、また対象は現象にほかならないというふうに考える」ことです。
    この文では、「自発的に」という表現が「ア・プリオリに」という表現で言い換えられていますが、もちろん「自発的に」と「ア・プリオリに」は、素朴に考えれば全く異なった表現です。どう考えればいいのでしょうか。

 

「自発性(Spontaneität)」とは何か

・カント事典によれば、「自己活動性(Selbsttätigkeit)」と同義の意味を持つ「自発性(Spontaneität)」は、「直接に自分自身の内から自力で能動的に自らを働かせる能力であ」り、また「自らの存在の原因と根拠を自分自身のうちにもつもの」だけがそうした自発性を持っているそうです
    そのような自発性は、「経験的感覚的感性的なもの」よりも「純粋で知性的叡智的なもの」に対応しており、「客観(存在)よりもむしろ主観(はたらき)」との関わりにおいて考えられます。
 

・そもそも、カントにおいて、人間の認識は「感性」と「悟性」に二分され、前者が我々に対象を与え、そして後者によってその対象が思惟されます。そのため、感性は受容する能力であり、対して悟性は、そうした感性が受容する「多様」に同一の対象を認める能力です。そしてその対象は「概念」と呼ばれます。

 つまり、「触発を通じて受容された多様な表象を、悟性の働きとしての「機能」によって概念的統一へともたらす」のが、感性と悟性によって構成される認識能力の役割と考えられます(p. 225)。

 

・しかし、この説明では、自発性は悟性の対象である概念と主に関わっており、感性的形式であるところの純粋直観に関わると見なすことは困難です。

 

ア・プリオリ」とは「生得的」のことではない

・「自発的に」と「ア・プリオリに」の言い換え関係を理解するには、あらためてカントが用いる「ア・プリオリ」という概念が何であるかについて考える必要があります。

 

ア・プリオリは「経験に先立つ」ことを意味しますが、しかし、それは心理学で言うところの「生得的(ange-boren)」とは区別されなければなりません。というのも、心理学的なニュアンスがある「生得的」という概念には「生まれつき、生まれを持っての」といった意味があるのに対し、カント事典によれば、カントの言う「ア・プリオリ」は「秩序のうえで、また認識源泉に関して言われる」概念であるからです。

 

・たとえば、カントは、ア・プリオリであることの指標として「必然性」と「普遍性」の二つを挙げています。何らかの判断・認識が、その内容の特殊性や認識主体の個別性とは無関係に、加えて必ず成り立つとき、そうした判断・認識はア・プリオリな判断・認識と見なされます。つまり、いつ・どこで・誰にとっても成り立つならば、そうした判断・概念はア・プリオリであると見なされます。

 

・興味深いのは、「生得的」と「ア・プリオリ」とを区別するカントは、「生得観念」は存在すると見なすライプニッツと、観念は全て経験より生じるというロックとの論争において、そのどちらの立場にも立たず、純粋直観やカテゴリーのようなア・プリオリな概念を認識能力それ自身のうちから生じるものと見なしている点です。

 

〔カントは〕認識能力が自己活動によって自らの内から獲得した概念──直観であれ、概念であれ──の存在を主張する。彼は観念のそのような由来を、当時の自然法用語に則って「根源的獲得(acquisitio origingria)」と呼んだ。これによって、アプリオリとは「根源的に獲得された」という意味を持つことになる。その意味で、純粋直観(空間・時間)もカテゴリー(純粋悟性概念)も、カント的には根源的に獲得されたアプリオリな原理であって、生得的原理ではない。(『カント事典』、p. 4)


   これらのことを考慮するならば、「自発的に」と「ア・プリオリに」は共に、生得観念や経験によってではなく、「直接に自分自身の内から自力で能動的に自らを働かせる能力」によって表象が為されることを意味していると解釈することができます。

 

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縮刷版 カント事典

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第13回 純粋直観である空間と時間には感性の形式しか含まれていない

 今回は、「超越論的主要問題」の第九節と第十節を読みました。ページ数で言うと、岩波版のpp. 68−71です。大変理解に苦しむ箇所であり、そして、その分だけ重要な箇所だったと思います。 次回は第十一節から読み進めていくことになります。

 

 

第一章「純粋数学はどうして可能か」第九節の構造

・第九節は、主に三つのまとまりによって構成された節として分割できるように思います。

①カントとは異なる主張の提示し、その主張が成り立ち得ないことを論証する

②その論証を受けて自説を提示する

③そのような自説から二つの主張を導く

 

直観を「物をそれ自体あるがままに表象する」と見なす立場への反駁

・まず①では、カントとは真逆の立場として、直観は「物をそれ自体あるがままに表象する」と見なす立場が提示されます。このような立場は、直観を経験的直観、すなわち特定の時空内部に存在する認識主体が個別的・直接的に対象に関係する直観にだけ限定するという立場です。

 

・参加者の方によれば、近世以後の哲学者は、こうした立場の範例としてドゥンス・スコトゥストマス・アクィナスのような中世哲学者を想定しているそうです。ですが、スコトゥスやアクィナスがそのような主張をしているというより、あくまで藁人形論法的に「中世哲学者はそのような主張をしている」と近世哲学者は見なしていると捉えたほうがよい、という指摘が為されました(大意)。 

 

・カントは、そのような立場において、「〔経験的〕直観がどうして私にこの物をそれ自体あるがままに認識させるかということがまったく理解できなくなる」と述べており、いわばそのような直観はその根拠が理解不可能であり、ゆえに、「この表象は霊感をまって初めて生じたとでも言わざるを得ない」とカントは述べています。

 

・カントはここで、経験的直観における総合的判断が「経験的に確実であるに過ぎない」ため、そのような直観のもとで為される判断が「偶然的」なものであるという第七節の議論を、根拠が理解不可能であるという観点から再度述べていると考えられます。

 

「純粋直観」とは空間と時間のことである

・①を受けて、②でカントは、「私の主観においてかかる現実的印象に先立つところの感性的形式しか含んでいない」ような直観について述べ、そのような直観は「対象の現実性に先立ち、ア・プリオリな認識として発生する」ことが出来ると述べています。そして、そうした直観のことをカントは「純粋直観」と呼びます。また次節でも述べられているように、そうした純粋直観は「空間と時間」のことです。

 

・英国経験論の伝統を引き継ぐヒュームにおいて、意識内容は、「知覚(perception)」と呼ばれ、その知覚は「印象(impression)」「観念(idea)」によって構成されています。外界から直接的に受容された知覚が「印象」であり、その印象を記憶や想像によって内的に再生したものが「観念」と呼ばれます。

 この観点からすれば、「現実的印象」とは、想像力(カント的に言えば構想力)を媒介とせずに特定の時空内部から直に受容されたものである、と解釈できます。

(ですが、参加者の方によれば、印象はカントにおいて独自な用法で用いられることもあるらしいので、どのような意味でカントがここで印象という言葉を記述しているかはまだ確定できません) 

 

純粋直観を前提とした場合に帰結される、二つの主張

・次に③で、カントは、「対象の現実性に先立ち、ア・プリオリな認識として発生する」ような純粋直観を前提とした場合、二つの主張が帰結されると述べています。

 

それは──感性的直観のかかる形式に関係する命題だけが、感官の対象について可能であり、またこの対象に妥当するだろう、ということであり、同様にまたそれとは逆に、ア・プリオリに可能な直観は、我々の感官の対象以外の物〔例えば、物自体〕には関係し得ない

 

・「感性的直観のかかる形式」は純粋直観の言い換えであり、純粋直観は「時間と空間」を意味することから、「感性的直観のかかる形式に関係する命題」とは時間と空間に関係する命題(たとえば幾何学代数学の命題)であると考えられます。

 

・今回の読書会では、「同様にまたそれとは逆に」は、純粋直観を前提とするという点で「同様」であり、そして前文の主張と一見して反対に見える主張を導いているという点で「またそれとは逆に」とカントは述べているのではないか、とする指摘が為されました。

 

・つまり、純粋直観があり得るという前提に立つならば、一方で感官の対象について可能であり、かつそれに妥当するのは時間と空間に関する命題だけであり、他方で、そうした時間と空間は、物自体のような感官の対象以外の物には関係し得ないだろう、とカントは述べています。

 

・カント事典によれば、純粋直観についてカントは、「そこにおいて感覚に属するものがいささかも見出されない表象を全て(超越論的な意味での)純粋と名付ける」と述べることで「純粋」を定義しています。そして「表象として、何かを思考するという作用よりも前に先行し得るものは、直観であり、それが関係以外の何物も含まないならば直観の形式である」と述べています[B 34,34f]。

 つまり、思考に先行し、関係以外の何物も含んでおらず、感覚に属するものがいささかも見出されないものが純粋直観であると考えられます(『カント事典』、p. 242)。 

 

カントにおける「形式(Form)」概念について

・また、同書によれば、純粋は「経験的」と対置され、純粋<>経験という概念対は、形式<>質料、ア・プリオリ<>ア・ポステリオリという概念対に対応しています。

 したがって、純粋直観は形式しか含まないア・プリオリな直観であると考えられます(〃)。カント事典において、「形式(Form)」は以下のように説明されます。

 

最広義には、規定されうるものを質料、その規定を形式というが、カント独自の概念としては、一般に、経験的に与えられる多様としての質料に対し、その法則的秩序としてアプリオリにわれわれの内に見い出される根本的規定をいう(pp. 129-130)

 

 Formが形相ではなく形式と訳されるのは、「それが本来、対象の内に(対象として)認識されるものではなく、むしろわれわれの認識の仕方・様式に属するものだから」であると考えられます(〃)。

 

「規定(Bestimmung)」はdeterminatioというラテン語の独訳であり、英語で言えばdetermination、つまり「決定」とも訳されます。語源的に解釈するならば「de-」は「離れる」を意味し、「term」は「終わり」を意味するため、「境界線を設けてある事柄を終わらせる」という含意がdeterminatioにはあると考えられます(きちんと調べていないので、踏み込んだことは全く言えませんが…)。

 

 また、「規定する」という言葉には、主に三つの意味内容が含まれています(p. 103)。

①内容を与える

②内から形成する

③他から区切られる

(「規定」の項目自体が少し要約することが難しいので、「規定」の要約は省きます)

 

では、純粋直観であり主観の形式でもある空間と時間は、純粋数学にどのように関係するのか

・そして第十節の一段落で、カントは、ア・プリオリな綜合的命題の可能性が認められる」とすれば、それは、対象が感性の形式に一致するように現れ得る場合だけである、と述べており、さらに、二段落でカントは、そうした感性的直観の形式を「空間と時間」であると述べています。また、このような純粋直観すなわち空間と時間がなければ、純粋数学におけるア・プリオリな綜合的判断は不可能であるとカントは考えています。

 たとえば「幾何学の根底には、空間という純粋直観があ」り、「算数学〔代数学〕は時間において単位を逐次に付け加えること」が必要であり、「純粋力学は、運動の概念を時間における表象を介してのみ成立させることができる」というふうに述べ、幾何学代数学・純粋力学という三つの事例を例示として挙げています(純粋力学はむしろ自然学に分類されると思いますが)。 

 

・また、空間と時間が純粋直観であるということの根拠として、カントは以下のように述べています。

 

空間と時間の表象は、いずれも〔純粋〕直観にほかならない。我々は物体とその変化(運動)との経験的直観から経験的なもの、すなわち感覚に属するところのものをすべて除き去っても、なお空間と時間とはあとに残るからである。それだから空間および時間は、経験的直観の根底にア・プリオリに存する純粋直観であり、従ってまた空間および時間そのものは決して除去せられ得ないのである 

 

 このようにカントは根拠を提示しますが、今回の読書会では、カントはここで素朴に自らが根拠と見なしているものを提示しているだけであり、その根拠を通じて自らの主張を論証しているとは言えないのではないか、とする指摘が為されました。

 

いままでの議論のまとめ

・だいぶ議論が様々な方向に及んだので、すこし議論を整理したいと思います。

 「在る」ものに関わる理論的認識である純粋数学は、ア・プリオリな綜合的認識であると考えられます。というのも、純粋数学は、対象を直観において示すことが出来るからです。そのため、純粋数学は、理論的認識でありながら概念とは異なる直観によって構成されます

 

・次に、カントは、そのような学の究明を通じて「何かをア・プリオリに認識する理性能力」の限界を画定しようとします。ただし、その直観は、ある特定の時空間の内部で対象と直接的・個別的に関係する「経験的直観」ではなく、「純粋直観」です。純粋直観は、数学における判断が確然的かつ必然的なものとして現れる際に、そうした判断や認識の根底に存在する直観であり、また、直接的でかつ個別的でありながらも現存在に先立ったア・プリオリな直観です。それには「感性的な形式」しか含まれていません

 すなわち、純粋直観は、たとえ感覚をすべて偽として退けたとしても、それでもなお、対象を受容する能力である感性の、その形式として数学や自然学のような学的認識の根底に存在している、とカントは考えていると言えるでしょう。

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

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縮刷版 カント事典

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第12回 四つに分類される超越論的主要問題

今回は、「一般問題」の第五節「純粋理性に基づく認識はどうして可能か」の十段落から十二段落、そして先験的主要問題(以下、「主要問題」)の第一章「純粋数学はどうして可能か」第六節から第八節までを読み進めました。ページ数で言うと岩波版のpp. 62-68です。
 次回は第九節から読み進んでいくことになります。

 

 
プロレゴメナ』に特有な方法

・前回も十段落は読みましたが、改めて繰り返すと、「条件づけられたものや根拠づけられたものから出発して原理へと進む」ような、「背進的方法 (regressive Methode)」あるいは「発見の方法」とも呼ばれる分析的方法に従うならば、純粋理性に基づくア・プリオリな認識はすでに二つ存在しています。

 そして、それは純粋数学と純粋自然科学です。何故なら、この両学は「対象を直観において示す」ことができるからであるとカントは述べています(『カント事典』,p.308)。

 

・対して、「原理から帰結へ、あるいは単純なものから合成されたものへと進む」ような、「前進的方法 (progressive Methode)」とも呼ばれる綜合的方法は、考察を「抽象的に (in abstracto)」概念から導出します(同頁)。

 こうした具体性・抽象性を示す副詞は、『プロレゴメナ』においてラテン語で表記されており、両学の相違する点としてカントは恐らくこれらの副詞を用いていますが、では分析的方法における対象の提示はなぜ「具体的」であるのか、そして「具体的に示す」とはどういったことなのか、このことについて、今回の読書会では議論が為されました。
 

直観と概念の違いについて

・カント事典によれば、カントの認識論において、認識は「直観と概念」という二つの要素から成っています。直観が対象に直接的に関係する個別的表象であるのに対し、概念は「多くの対象へ間接的に(徴表を介して)関係する普遍的な表象」です。どういうことでしょうか。

 

・たとえば、特定の時空内に存在する認識主体が目の前の「このコップ」を知覚するとき、この知覚された対象は、何らの媒介抜きに知覚されているという意味において「直接的」に、また特定の認識主体に知覚されているという意味で「個別的」に知覚されたものであり、カントにおいては「直観」であると考えられます。

 反対に、言語によって表現される「コップ」という名詞は、現実において存在するどのようなコップにも等しく妥当し、そして特定のコップの生成消滅とは無関係に存在しています。その意味で、言語によって表現される「コップ」という名詞は、個別的に存在するもの(=個別者)に対して普遍的に存在するもの(=普遍者)として存在していると考えられます。

 こうした言語によって表現される「コップ」のような名詞が、カントにおいては「概念」であるとさしあたりは考えられます。
 

カントにおける現存在(Dasein)とは何か

・十段落では、「この認識〔純粋数学〕の真理」と「認識と客観との一致」あるいは「この認識の現実的存在」が言い換えになっており、今回の読書会ではこのことに着目がなされました。また、ここで記述されている「現実的存在」は、「現存在 (Dasein)」ではないかとする指摘が為されました

 

・カント事典によれば、「現存在 (Dasein)」は「実存性(Existenz)」や「現実性( Wirklich-keit)」とほぼ同義であり、それは、物が何であるかに関わる「本質的存在 Wassein」とは異なり、人・物・出来事がある特定の時空間的場所(Da)を占めているという在り方を意味しています。

 したがって、あるものが現に存在していないが存在し得るものであるという場合、そのものは現存在ではないと考えられます(『カント事典』,p. 159)。

 

・また、カントは自らのカテゴリー表において、現存在を様相のカテゴリーであると見なしています。様相はアリストテレスに由来する概念であり、アリストテレスにおいてそれは命題の「可能性・不可能性・必然性」などに関わる概念でしたが、カントにおいて、様相は事物に関わる概念と見なされています。

 そして、カントはこうした現存在を感性によって認識されるものというふう考えており、その意味で、「直観」と「現存在」は関連する概念であるとさしあたりは考えられます。
 

プロレゴメナ』における四つの主要な問題

・十一段落において、カントは形而上学へと向かおうとする人間本来の「素質 Naturanlage」を考慮した上で、超越論的哲学における主要な問題を以下の四つに分類しています。

 

純粋数学はどうして可能か
②純粋自然科学はどうして可能か
形而上学一般はどうして可能か
④学としての形而上学はどうして可能か 
 

・「一般問題」全体の趣旨をもう一度確認しておくと、「いったい〔学としての〕形而上学は可能か」を問うに際し、分析的方法に従う『プロレゴメナ』において、カントは、問いを「純粋理性にもとづく認識はどうして可能か」という問いへと変形します。

 更にその問いをより厳密に表現したものがア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」という問いです。そして、その上でその問いを分類し、順序づけられたものが、「主要問題」で論じられるこの四つの問いです。
 

人間的理性は運命として形而上学を求めざるを得ない

・カント事典によれば、人間は物の使用に関わる「技術的素質」や他者を自らの目的のために利用する「実用的素質」、そして自由の原理のもとで自他に対して行為する「道徳的素質」などを有しているとカントは考えていますが、同様に、人間は形而上学に対する要求」を素質として有しているとカントは考えています(『カント事典』,pp.311-312)。

 このような見方は、『純粋理性批判』の第一版の序文の冒頭において記述されている「人間的理性の運命」とも関連していると考えられるように思います。たとえば、カントはそこで以下のように述べています。
 

「人間的理性は、経験の経過におけるその使用が不可避的であり、また同時にその使用が経験によって十分確証されている諸原則から始める。これらの諸原則を携えて人間的理性はますます高く上昇し、いっそう遠く隔たった諸条件へと向かう。しかし人間的理性は、問題はけっして決しておわることがないゆえ、このような仕方ではおのれの業務がいつでも未完結のままにとどまらざるをえないということに気づくので、そこでこの理性は、すべての可能的な経験使用を越え出るが、それにもかかわらず、普通の常識すらそれらと一致するほど信頼できると思われる諸原則へと、逃避せざるをえないと認める」

(『純粋理性批判 上』,pp. 25-26,平凡社ライブラリー

 
・この引用箇所において述べられているのは、理性の可能性の条件を批判することなく理性を使用する独断論者」の立場のことですが、カントにおいて、人間はそのように素朴に形而上学へと向かわざるを得ない存在と見なされます。
 

主要問題はなぜそのような構成で展開されるのか

・十段落の箇所が超越論的哲学における主要問題の①、②と関連するならば、十一段落は、③と④を別個の問題として提示するための段落ではないか、とする指摘が為されました。また、この①から④までの問題は、より解答することが容易なものから困難なものへ、いわばより厳密さや解答の困難さの度合いが増していく仕方で配置されている問題群ではないか、とする指摘が為されました。

 しかし、だとすれば何故このような順序で問いが考察されていくのか、特に純粋数学の次に純粋自然科学が来るのはどうしてなのか、このことについて今回の読書会では議論が為されました。
 

純粋数学にせよ純粋自然科学にせよ、カントによれば、両者は共にア・プリオリな綜合的認識」ですが、純粋数学に比べて、純粋自然科学はより我々が日常的に接している自然科学の認識とかけ離れており、その意味で、純粋数学より解答が困難なものであるとカントは想定しているのではないか、とする指摘が為されました(大意)。

 

・というのも、以前も述べたように、カントにおいて「純粋」という形容詞は経験が全く介在しないことを意味しています。そして我々が前提としている自然科学は通常「経験科学」と呼ばれており、観察や実験などの経験的な過程によってサンプルを抽出し、そしてそうしたサンプルから帰納的に何かしらの法則を導出する営みのことを指しており、そのため純粋自然科学の方がより解答が困難であると捉えられるからです。

第一章「純粋数学はどうして可能か」の導入箇所 

・「主要問題」の第六節は第一章全体の議論の導入のような役割を担っているのに対し、第七節は非常に議論が圧縮されており、読み解くのが非常に難しい節になっています。この節では議論が難航しましたが、さしあたり、本節において今回の読書会では以下のようなこと確認しました。

 

①直観には経験的直観と純粋直観とがあるということ。
②数学的な認識は、純粋直観において概念を現示するのであり、また、数学的な認識の根底に純粋直観が存在するということ。
③そして、こうしたことが「数学を可能ならしめる第一の、しかも最高の条件」であるとカントは見なしていること。
④経験的直観において、綜合的判断は経験的にのみ確実であり、そうした判断はいわば偶然的なものであるのに対し、純粋直観において、綜合的判断は「確然的に確実であ」り、そうした判断は、「純粋直観において必然的に見出され」るものである、とカントは考えているということ。

つまり、カントは両直観を確実性<>不確実性、偶然性<>必然性という二つの観点から記述しているということ。
⑤そして、綜合的判断が純粋直観から必然的に見出されるものであるため、純粋直観は「すべての経験に先立って(…)概念と不可分離的に結びついている」とカントは見なしているということ。
 

どうして「純粋数学はどうして可能か」という問いは難しいのか

・第八節では、前節の議論によって「困難は減少するどころか、むしろますます増大して」いると述べたのち、その理由として、カントは、前節の議論を引き受けることによって「純粋数学はどうして可能か」という問いが「何か或るものをア・プリオリに直観することはどうして可能か」という問いに変形されるからであると述べています。つまり、カントは、この議論の困難さを、八節ではア・プリオリに〔何かを〕直観する」ことの困難さとして見なしています。


・カント事典によれば、直観は感性という働きにのみ関係し、概念は悟性の働きにのみ関係します。そして、感性とは、「われわれが対象によって触発される仕方によって表象を受け取る能力(受容性)」[B 33]のことだとカントは見なしています。このように、感性はあらかじめ存在する対象を受容する能力であるため、対象をア・プリオリに直観するということには矛盾が生じてしまいます(『カント事典』,p.82)。
 
・そのような純粋直観にまつわる困難を指摘しつつ、同節においてカントは、対象の直観に関わりなく存在する概念として「対象一般の恣意だけを含むような概念」、すなわち「純粋悟性概念(カテゴリー)」について述べたのち、こうした概念が「意義と意味」を持つためには「これらの概念を何らかの直観に適用」する必要があると述べています。

 

・つまり、第八節は、一方で純粋直観の困難について指摘しつつ、他方で純粋悟性概念が意義と意味を持つためには直観に対する適用が必要であるという二つの主張を行なっています。その上で、カントは、同節の最終文で「対象の直観はどうして対象そのものに先立つことができる」のかについて問いを提起し、第九節へと議論を展開しています。

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

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縮刷版 カント事典

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純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー)

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第11回 「超越論的」と「超越的」

今回は、「一般問題」の第五節「純粋理性に基づく認識はどうして可能か」の九段落と十段落の途中までを読み進めました。ページ数で言うと岩波版のpp. 61-62です。今日は参加者の方が少なかったので、『プロレゴメナ』を主に読み進めていくというより、カント事典の幾つかの項を参加者の方と読みながらゆっくりと議論を行いました。
 次回は第五節の残りの箇所と「先験的主要問題」の第一章「純粋数学はどうして可能か」の第七、八節くらいまで読んでいけたらと思います。

 

 

「超越論的(transzendental)」とはどういう概念なのか

・今回の読書会では、第五節の九段落において最も中心的な主張は「先験的哲学は、すべての形而上学に先立たねばならない」という箇所である、とする指摘が為されました。

 

・訳注によれば、先験的哲学とは「先験的概念の体系」のことであり、「純粋理性の一切の原理の体系」のことです(「純理」・二五、二七)。今回の読書会では、先験的哲学と訳されるTranszendentalphilosophieは「超越論的哲学」と訳すほうがよいだろう、という指摘がなされました。カント事典でも、Transzendentalphilosophieは「超越論的哲学」と訳出されています。

 

・今回の読書会では、カント事典に記載されている「超越的」の項と、「超越論的」の項の「【Ⅰ】伝統的意味」と「【Ⅱ】「序論」の定義」を読みました(pp. 335-337)。

 

その歴史的経緯とカント自身の用法

・カント事典によれば、「超越論的(transzendental)」は、「『純粋理性批判』の最も中心的な術語」であり、一般に「超越的(transzendent)」とは区別されていますラテン語では前者が現在分詞のtranscendentaleであり、後者は形容詞のtranscendensですが、どちらにせよスコラ哲学においては同じ意味を表す語として考えられてきました。

 スコラ哲学において、両者はアリストテレスのカテゴリーのいずれにも適用されるという仕方でそれを超越するような概念」であり、そうした概念は主に「有(存在)」「一」「真」「善」という四つの概念として想定されています。

 

・それに対し、第一批判の「序論」においてカントは「超越論的」を以下のように定義しています。(第一版と第二版では記述が若干異なるので、併記します)

 

「私は、対象にではなく、むしろ対象一般についてのわれわれのアプリオリな諸概念に係わるすべての認識を、超越論的と名づける」[A 11f.](第一版)
「私は、対象にではなく、むしろ対象一般についてのわれわれの認識様式に、これがアプリオリに可能であるべきかぎり係わるすべての認識を、超越論的と名づける」(第二版)

 

・そして、カント事典の「超越論的」の項の冒頭において、「純粋理性の自己認識」において成立している「純粋理性の自己関係」こそが超越論的に対して核心を成していると述べられています(同項において、「純粋理性の自己関係」には独立した節が設けられています)。

 また、「超越的」の項では「超越論的とは〔…〕基本的には経験の成立する条件として、そのようなアプリオリ性を認める考え方をいう」と述べられています。

 

「対象(Gegenstand)」とは、知性との関係を含む認識論的概念である

・また、カントにおいて、「対象(Gegenstand)」とは「物(Ding)」のような存在論的な概念とは区別された、「何らかの知性との関係を含む認識論的概念である」と見なされます(カント事典、p. 321)。

 そのため、先の定義における「対象」は、すでに何らかの認識論的な構図によって先立たれた概念であると見なすことが差し当たり可能です。また、このような「対象(Gegenstand)」と「物(Ding)」の相違は、事象をいわゆる「現象(Erscheinung)」と「物自体(Ding an sich)」とに分割するカント哲学の基本的な枠組みに対応するように思われますが、その点についてはまだ判断する素材が少ないため、判断を留保しました。

 

カテゴリーに係わるすべての認識を、超越論的とカントは呼んでいる

・カント事典の記述に従うならば、「対象一般についてのわれわれのアプリオリな諸概念」とは「純粋悟性概念(カテゴリー)」のことを指しています。

 したがって、第一版の定義では、カテゴリーに係わるすべての認識を、超越論的とカントは呼んでいると読むことができます。とはいえ、九段落の議論で述べられている事柄からそこまで読み取ることはできないので、超越論的が何であるかに関する議論はひとまず保留されました。

 

カントにおける理論的認識と実践的認識の違いと直観について

・十段落において、カントは再度プロレゴメナにおいて採用する方法が「分析的方法」であることを述べつつ、「理論的認識」に属する二つの学、すなわち純粋数学と純粋自然学とを引き合いに出し、両者の学はどちらも「対象を直観において示すことができる」と述べています。

 カント事典によれば、「理論的認識」とは「現に存在するもの」の認識であり、存在する「べきはず(sollen)」事柄を表象する「実践的認識」とは区別されます(p. 400)。

 

直観とは対象へ直接的に関係する表象のこと

「対象を直観において示すことができる」とは一体どういうことなのかについて、議論が為されました。また、十段落の五行目から七行目にかけての文は、邦訳では文章構造が若干煩雑であり、指示語や言い換え表現などが把握しづらく、この文をどのように読み解けばいいのかについて、議論が為されました。また、この文を解釈するにあたり、この文の内容と「超越論的観念性」と呼ばれる概念との関連性が指摘されました(カント事典ではp. 340の箇所)。

 

・カント事典によれば、直観とは「対象へ直接的に関係する表象」のことを指します。前述でも述べたように、対象は「何らかの知性への関係を含む認識論的な概念」です。そして、「表象(Vorstellung)」はラテン語のperceptioのドイツ語訳であるため、ライプニッツのperceptioがどのような概念であるかは今のところ不分明ですが、差し当たり表象には知覚のニュアンスがあるだろうということが確認されました。

 とはいえ、カントの想定する純粋数学の原理は矛盾律ではありませんが、さりとてア・ポステリオリな綜合判断とも異なっており、それゆえ素朴な意味での知覚と直観が異なっているのは明らかです。「直観」に関する議論は、先験的主要問題の中心的な論点の一つでもあります。

 

・また、「直観」は「直観/直感」と訳し分けられる場合があるという指摘が為されました。前者は「知的直観」のことを指し、後者は「感性的直観」のことを指すようです。

プロレゴメナ (岩波文庫)

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カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

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第10回 「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」に関する三つの立場

今回は、「一般問題」の第五節「純粋理性に基づく認識はどうして可能か」の四段落から八段落までを読みました。ページ数で言うと岩波版のpp. 56-60です。次回は第五節の残りの箇所と「先験的主要問題」の第一章「純粋数学はどうして可能か」の第七、八節くらいまで読んでいけたらと思います。 

 

 

ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」という問いは形而上学の存亡に関わる

・第五節の四段落において、カントは、ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」という問いの解決を、形而上学の存亡に関わることと見なしています。そして、そのような問いを解決することなく形而上学について論じる人の学説を、カントは「根拠のない独りよがりの哲学でありえせ学識にすぎない」と述べています。

 
・今回の読書会では、そうした問いを解決することなく形而上学について論じる人は、カント自身の今までの議論からすれば独断論者に当たるのではないか、とする解釈が為されました。また、四段落の五行目以降は、そうした人が一体どのような主張を行なっているかについて詳しく述べられています。それは以下のようなものです。


①純粋理性に基づき、認識はア・プリオリに創作できる
②与えられた概念を分析するにとどまらず、諸概念は新たに連結することも可能である
③また、その連結は矛盾律に基づかない
④そして、こうした連結は「必然的」なものであり、経験に関わることなく洞察できる。 

 

独断論とはどのような立場であるのか

・カント事典によれば、独断論とは「人間理性は何を、いかに、どこまで認識できるのか、この点に関する「理性能力についての先行する批判」のないまま理性を用いる」ような論説のことです(pp. 384-385)。

 また、同じくカント事典によれば、そうした独断論者としてカントが想定しているのはライプニッツ、ヴォルフなどの論者ですが、しかしヴォルフやその後継者であるバウムガルテンの哲学において、矛盾律は「存在論から宇宙論・霊魂論・神学に及ぶ、全形而上学の第一原理と位置付けられる」のであり、四段落で述べられているような独断論者と厳密には一致しません。このことについて今回の読書会では議論が為されました。

 

・主催者個人の解釈としては、ここでカントが述べている「えせ学識」の論者とは、特に「ア・プリオリな綜合的命題」に関して「理性能力についての先行する批判」のないまま理性を無批判に用いるような論者のことを指すのではないかというふうに思います。

 なぜなら、諸概念を新たに連結することは、「主語概念において考えられなかったもの、或いは主語概念を分析することによっては引き出し得なかったものを、この概念に付け加える」ような、認識を増大させる判断──すなわち綜合的判断のことを指していると考えられ(純利・一一)、そして、そのような連結を経験にかかわらず洞察することとは、ア・プリオリな総合的命題」の可能性を問うことなく無批判に理性を用いているというふうに考えられるからです(正確な表現ではないかもしれませんが…)。


 ・また、四段落の十行目の「申し開き」は英語ではjustifyに当たるのではないかとする指摘が為されました。

・五段落では、「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」という問題がなぜ解決されてこなかったかについて、カントは主に二つの理由を提示しており、一つは「こういうことが問題になり得るなどとは何びとも思いつかなかった」からであり、もう一つは「〔それを解決するには〕深くかつ骨の折れる思索を必要とする」からであるとカントは述べています。 

 

ア・プリオリで純粋なかかる綜合的認識が実際に存在していない」というヒュームの立場

・そして、ヒュームのようなア・プリオリで純粋なかかる綜合的認識が実際に存在していない」と考えるような論者においては、そもそも、こうした課題そのものがあり得るとすら考えられないだろう、とカントは述べ、五段落の後半部分はヒュームが取るだろう立場についてカントは論じています。 


・ヒュームによれば、概念の新たな連結は経験によって、すなわちア・ポステリオリな総合判断によって可能となりますが、その場合、そうした諸概念の連結は「必然的」ではあり得ません。もし仮にそうした連結が必然的であると見えるなら、それは「経験において同じ連想がたびたび繰返されると、そこから主観的必然性が生じる、するとこの必然性は、遂には客観的誤想」されるような、いわば「習慣」の結果に他ならない、このようにカントはヒュームの立場を再構成しています。


 ・本書において、カントはヒュームの立場を常に因果の必然的連結に論駁した論者として記述していましたが、この箇所では、カントはヒュームの立場を因果関係だけにとどまらず諸概念の連結に対して一定の立場を取っている論者として記述しています。

 

 ・今回の読書会では、p. 58の一行目冒頭で訳者が付け加えている「〔純粋数学および純粋自然学〕」という箇所がミス・リーディングを誘う箇所であることが指摘されました。

 この箇所は「ア・プリオリで純粋なかかる綜合的認識」の言い換えですが、「ア・プリオリで純粋なかかる綜合的認識」に純粋数学が含まれていると考えているのはカントの方であり、ヒュームはそう考えていません。たとえばp. 42で、カントはヒュームが「純粋数学は分析的命題だけを含むが、これに反して形而上学ア・プリオリな綜合的命題を含む」と考えている、と述べています。

 したがって、ヒューム自身が純粋数学は実際に存在していないと仮定しているわけではなく、仮にp. 42の引用をそのまま受け止めるならば、ヒューム自身が実際に存在しないと仮定しているのは形而上学の方ではないか、とする解釈が為されました。 

 

「説得の技術」として用いるのであれば、特に否定はしない

・六段落では、カントが自らの仕事を「完全な普遍性」を持ち、かつ分析的方法によって為されたものであると述べていることが確認されました。ここで述べられた「完全な普遍性」とは、いかなる事例に対しても妥当するということを意味していると解釈されました。


 ・八段落では、「ア・プリオリで純粋なかかる綜合的認識」に対する十分な回答を持ち合わせていなくとも、それを「学として」ではなく「説得の技術として」用いるのであれば、特にその営為を否定しないとカントは述べています。

 しかし、そのような形而上学者は、経験の彼方にある「何か或るもの」を、「推測する」のでも「知る」のでもなくただ「想定する」ことだけが許されるとカントは述べています。ゆえに、そのような形而上学者の「意見(Fürwahrhalten)」は「理性的信」に他ならないというふうにカントは述べています。

 

「信憑」は「臆見(Meinen)」と「信仰(Glau-ben)」と「知識(Wissen)」の三つに分類される

 カント事典では、Fürwahrhaltenは「信憑」と訳されます(以下、Fürwahrhaltenを「信憑」と表記する)。同事典によれば、『純粋理性批判』の後編である「超越論的方法論」の第二章三節で、カントは信憑を「臆見(Meinen)」と「信仰(Glau-ben)」と「知識(Wissen)」の三つに分類しています。

 そして、カントは主観的にも客観的にも不十分な信憑を「臆見」、主観的には十分だが客観的には不十分な信憑を「信仰」、主観的にも客観的にも十分な信憑を「知識」と見なしています。そのため、カントがここで「理性的信」と呼んでいるものは「信仰」に当たると考えられます。


 ・ここでカントが「何か或るもの」と呼んでいるものは、おもに「神や自由」などといったものである、とする解釈が為されました。このような「何か或るもの」は「生活において悟性と意志を指導」し、むしろ「この指導に欠くことができない」ものであるとカントは述べています。しかし、仮に「ア・プリオリな判断を問題とする」ならば、その認識は「必然的なもの」でなければならず、したがって、その主張は学でなければならない、とカントは述べています。

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

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第9回 「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」

今回は、「一般問題」第四節の三段落と四段落、それと第五節「純粋理性に基づく認識はどうして可能か」の一段落から三段落、そして三段落のあとに付された原注まで読みました。ページ数で言うと、岩波版のpp. 51-55です
次回は第五節の四段落目から読み進めていきたいと思います。

 

 

純粋理性批判』と『プロレゴメナ』の違い

・「一般問題」第四節は4つの段落で構成されており、そして、①②+③④という二つの塊が組み合わさって構成されている節であるという指摘が為されました。

 

・前回のブログでも書いたように、①②では、「いったい形而上学は可能なのか(Is metaphysics at all possible?)」と「形而上学はどうして可能か(how is the science possible?)」という問いが対比的に提示され、そして、独断論懐疑論→批判の立場というふうに認識が位階的に上昇していくという枠組みにカントの記述は従っています。

・それに対して、三段落目でカントは『純粋理性批判』と『プロレゴメナ』という二つの著作の違いについて論じています。前者が「一個の学を講述する」ものであるのに対し、後者は「むしろその学を──もしできれば──実現するためには何をなさねばならないかということを指示する」ものであるとカントは述べています。

 

綜合的方法と分析的方法という、二つの方法

・また、そうした二つの著作の違いは、前者が綜合的方法に基づいているのに対して、後者が分析的方法に基づいているということを挙げることができます。分析的方法と綜合的方法の違いについて、『論理学』のなかでカントは以下のように述べています。

 

「分析的方法は、綜合的方法に対置される。前者は条件付きのもの、すでに根拠を与えられているものから出発して原理に進み、これに反して後者は原理から結果へ、或いは単純なものから合成されたものへ向かって進むのである。それだから前者は背進的(regressiv)方法、後者は前進的(progressiv)方法と名付けられてよい」(『論理学』第一一七節)

 

・注意すべき点としては、カント自身が原注でも述べているように、分析的方法は分析的命題を扱うというわけではなく、あくまで綜合的命題をそのような方法において扱うとカントは見なしています。

 

・また、『純粋理性批判』は「その根底に理性そのもののほかには何一つ与えられたものをもたない、それだから与えられたいかなる事実にも依拠することなく、認識をそもそもの根源的胚芽から開展させようとする」ものであるのに対し、『プロレゴメナ』は「すでに我々が信頼できると認めているような何か或るものに依拠」する必要があり、そして「そこから出発し、また知られていない源泉〔認識の〕まで遡ることができる」とカントは述べています。

 

信頼できると認めるものから始める

・そして、そうした「我々が信頼できると認めているような何か或るもの」こそが四段落で述べられている純粋数学と純粋自然科学」に対応するのではないかという指摘が為されました。

 

・また、カントは、純粋自然科学は「部分的には経験に基づく一般的同意によって例外なく承認される」と述べている一方で、それは「経験にまったくかかわりのないもの」であるため、純粋数学と同じく論議の余地のないア・プリオリな綜合的認識」であると見なしています。

 この点において、純粋自然科学は、「予備的注意」第二節で提出された二つの綜合判断──すなわち経験判断によって構成される認識ではない、という指摘が為されました。

・第四段落において、カントは、「かかる認識〔純粋数学や純粋自然科学といったア・プリオリな綜合的認識〕が可能であるかどうかを問う必要はな」く、「ただこの認識がどうして可能であるかというだけを問いさえすればよい」と述べています。

 

我々が究明すべき命題は「ア・プリオリな綜合的命題だけである」

・第五節「純粋理性にもとづく認識はどうして可能か」の第一段落では、「予備的注意」の第二、三節で扱った分析的判断と綜合的判断の相違について再度取り上げています。

 まず、分析的判断は矛盾律に基づいているがゆえに理解は容易であり、次に、ア・ポステオリな綜合的命題、すなわち「経験から得られるような綜合的命題」もまた説明する必要はない、とカントは述べています。それゆえ、我々が究明すべき命題はア・プリオリな綜合的命題だけである」というふうにカントは述べています。

 

・つづく第五節の二段落では、とはいえそうしたア・プリオリな綜合的命題が「可能なのか」どうかではなく、「どうして可能か」を考えるべきであるとカントは見なしています。その根拠として、カントは「かかる命題〔ア・プリオリな綜合的命題〕はいくらでもあり、しかも論議の余地のない確実さを持って実際に与えられているから」だと述べています。

 

・そのように述べた上で、カントは、「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」という問いは「形而上学に本来の課題」であり、またそれは「この学の趣旨を成すところの課題を、学問的な正確さを持って」言い現したものであると述べています。

 

・今回の読書会では、なぜ「ア・プリオリ綜合的命題はどうして可能か」という問いが「形而上学に本来の課題」であるのかについて議論が為されました。

 

・第五節の三段落では、「純粋理性にもとづく認識はどうして可能か」という問いに比べて「ア・プリオリ綜合的命題はどうして可能か」という問いのほうが「的確な表現」であるとカントは見なしています。

 なぜ前者に比べて後者のほうがより「的確な表現」であるのかということについて、前者の場合は分析的命題に基づく認識も含まれるからではないか(大意)、といった指摘が為されました。

 

超越論的論理学と超越論的弁証論

・また、三段落のあとに付された原注の後半部で、分析論は「真理の論理学」として弁証論に対立するとカントは述べていますが、ここで述べられている「弁証論」とはなんなのかについて議論が為されました。

 

・カント事典の「超越論的論理学」の項目によれば、カント哲学において、論理学は二つに大別されています。一つは「一般論理学」であり、もう一つが「超越論的論理学」です。前者は認識と関わらず、いわゆる伝統的な論理学と考えられ、後者は認識と関わり、主にカントが『純粋理性批判』などの著作において展開した論理学と考えることができます。

そして、超越論的論理学は「超越論的分析論」と「超越論的弁証論」とに区別されますが、前者は「真理の論理学」と対応し、後者は仮象の論理学」に対応しているというふうに考えられます。

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

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