第9回 「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」

今回は、「一般問題」第四節の三段落と四段落、それと第五節「純粋理性に基づく認識はどうして可能か」の一段落から三段落、そして三段落のあとに付された原注まで読みました。ページ数で言うと、岩波版のpp. 51-55です
次回は第五節の四段落目から読み進めていきたいと思います。

 

 

純粋理性批判』と『プロレゴメナ』の違い

・「一般問題」第四節は4つの段落で構成されており、そして、①②+③④という二つの塊が組み合わさって構成されている節であるという指摘が為されました。

 

・前回のブログでも書いたように、①②では、「いったい形而上学は可能なのか(Is metaphysics at all possible?)」と「形而上学はどうして可能か(how is the science possible?)」という問いが対比的に提示され、そして、独断論懐疑論→批判の立場というふうに認識が位階的に上昇していくという枠組みにカントの記述は従っています。

・それに対して、三段落目でカントは『純粋理性批判』と『プロレゴメナ』という二つの著作の違いについて論じています。前者が「一個の学を講述する」ものであるのに対し、後者は「むしろその学を──もしできれば──実現するためには何をなさねばならないかということを指示する」ものであるとカントは述べています。

 

綜合的方法と分析的方法という、二つの方法

・また、そうした二つの著作の違いは、前者が綜合的方法に基づいているのに対して、後者が分析的方法に基づいているということを挙げることができます。分析的方法と綜合的方法の違いについて、『論理学』のなかでカントは以下のように述べています。

 

「分析的方法は、綜合的方法に対置される。前者は条件付きのもの、すでに根拠を与えられているものから出発して原理に進み、これに反して後者は原理から結果へ、或いは単純なものから合成されたものへ向かって進むのである。それだから前者は背進的(regressiv)方法、後者は前進的(progressiv)方法と名付けられてよい」(『論理学』第一一七節)

 

・注意すべき点としては、カント自身が原注でも述べているように、分析的方法は分析的命題を扱うというわけではなく、あくまで綜合的命題をそのような方法において扱うとカントは見なしています。

 

・また、『純粋理性批判』は「その根底に理性そのもののほかには何一つ与えられたものをもたない、それだから与えられたいかなる事実にも依拠することなく、認識をそもそもの根源的胚芽から開展させようとする」ものであるのに対し、『プロレゴメナ』は「すでに我々が信頼できると認めているような何か或るものに依拠」する必要があり、そして「そこから出発し、また知られていない源泉〔認識の〕まで遡ることができる」とカントは述べています。

 

信頼できると認めるものから始める

・そして、そうした「我々が信頼できると認めているような何か或るもの」こそが四段落で述べられている純粋数学と純粋自然科学」に対応するのではないかという指摘が為されました。

 

・また、カントは、純粋自然科学は「部分的には経験に基づく一般的同意によって例外なく承認される」と述べている一方で、それは「経験にまったくかかわりのないもの」であるため、純粋数学と同じく論議の余地のないア・プリオリな綜合的認識」であると見なしています。

 この点において、純粋自然科学は、「予備的注意」第二節で提出された二つの綜合判断──すなわち経験判断によって構成される認識ではない、という指摘が為されました。

・第四段落において、カントは、「かかる認識〔純粋数学や純粋自然科学といったア・プリオリな綜合的認識〕が可能であるかどうかを問う必要はな」く、「ただこの認識がどうして可能であるかというだけを問いさえすればよい」と述べています。

 

我々が究明すべき命題は「ア・プリオリな綜合的命題だけである」

・第五節「純粋理性にもとづく認識はどうして可能か」の第一段落では、「予備的注意」の第二、三節で扱った分析的判断と綜合的判断の相違について再度取り上げています。

 まず、分析的判断は矛盾律に基づいているがゆえに理解は容易であり、次に、ア・ポステオリな綜合的命題、すなわち「経験から得られるような綜合的命題」もまた説明する必要はない、とカントは述べています。それゆえ、我々が究明すべき命題はア・プリオリな綜合的命題だけである」というふうにカントは述べています。

 

・つづく第五節の二段落では、とはいえそうしたア・プリオリな綜合的命題が「可能なのか」どうかではなく、「どうして可能か」を考えるべきであるとカントは見なしています。その根拠として、カントは「かかる命題〔ア・プリオリな綜合的命題〕はいくらでもあり、しかも論議の余地のない確実さを持って実際に与えられているから」だと述べています。

 

・そのように述べた上で、カントは、「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能か」という問いは「形而上学に本来の課題」であり、またそれは「この学の趣旨を成すところの課題を、学問的な正確さを持って」言い現したものであると述べています。

 

・今回の読書会では、なぜ「ア・プリオリ綜合的命題はどうして可能か」という問いが「形而上学に本来の課題」であるのかについて議論が為されました。

 

・第五節の三段落では、「純粋理性にもとづく認識はどうして可能か」という問いに比べて「ア・プリオリ綜合的命題はどうして可能か」という問いのほうが「的確な表現」であるとカントは見なしています。

 なぜ前者に比べて後者のほうがより「的確な表現」であるのかということについて、前者の場合は分析的命題に基づく認識も含まれるからではないか(大意)、といった指摘が為されました。

 

超越論的論理学と超越論的弁証論

・また、三段落のあとに付された原注の後半部で、分析論は「真理の論理学」として弁証論に対立するとカントは述べていますが、ここで述べられている「弁証論」とはなんなのかについて議論が為されました。

 

・カント事典の「超越論的論理学」の項目によれば、カント哲学において、論理学は二つに大別されています。一つは「一般論理学」であり、もう一つが「超越論的論理学」です。前者は認識と関わらず、いわゆる伝統的な論理学と考えられ、後者は認識と関わり、主にカントが『純粋理性批判』などの著作において展開した論理学と考えることができます。

そして、超越論的論理学は「超越論的分析論」と「超越論的弁証論」とに区別されますが、前者は「真理の論理学」と対応し、後者は仮象の論理学」に対応しているというふうに考えられます。

 

プロレゴメナ (岩波文庫)

プロレゴメナ (岩波文庫)