第8回 「いったい形而上学は可能か」から「形而上学はどうして可能か」へ
「一般問題」の第四節は全部で四段落構成です。なので次回は、残りの二段落分と、第五節「純粋理性にもとづく理性はどうして可能か」を読むことになります。
- そのほかの哲学者との関係
- 「いったい形而上学は可能なのか」と「形而上学はどうして可能なのか」
- 独断論、懐疑主義、そして批判の立場へ
- 蓋然的(problematisch)と蓋然性(Wahrscheinlichkeit)は異なる?
そのほかの哲学者との関係
・「予備的注意」第三節は、第二節以降より注意深く論じられてきた「分析的判断と綜合的判断の区分」が、カント以前においては混同されていたということを、ヴォルフ、バウムガルテン、ロックなどの哲学者を例に議論が展開されます。今回の読書会では、「すでにロックの『試論』において〜」と述べてられている『試論』が『人間知性論』であることが確認されました。
・また、ヴォルフやバウムガルテンが充足理由律の証明を矛盾律に求めたのに対し、カントは、充足理由律の証明を「明らかに綜合的命題である」と見なしていることについて議論が為されました。
・カント事典によれば、充足理由律は「「理由なしにはなにものも生じない」という伝統の原理を主題化し、そこに形而上学の体系を築こうとしたライプニッツ」によって創案された概念です。そして、充足理由律はラテン語でprincipium rationis sufficientisですが、このrationisは「原因」と訳すことが出来るのかどうかについて議論が為され、「理由」と「原因」との違いについて議論が為されました。
・また、矛盾律が数学や論理学といった永遠真理の基準であるのに対し、理由律は歴史的事象などの事実真理の基準である、というカント事典における「充足理由律」の記述について議論が為されました。
「いったい形而上学は可能なのか」と「形而上学はどうして可能なのか」
・「一般問題」第一節の第一段落では、二つの問いが対比的に論じられています。
一つ目の問いは「いったい形而上学は可能なのか」であり、二つ目の問いは「形而上学はどうして可能なのか、また理性がこの形而上学に至るためにはどうすればよいか」です。日本語だと差異が読み取りづらいですが、英訳では前者は「Is metaphysics at all possible?」であり、後者は「how is the science possible, and how does reason come to attain it」です。
前者はそもそも形而上学それ自体の可能性を問題にしているのに対し、後者は形而上学が仮に可能であるとして、ではそれは「どのように(how)」可能なのかが問われています。
・一段落四行目の「上に掲げた問い」は、標題である「いったい形而上学が可能なのか」を指示しているという指摘が為されました。日本語圏とは違い、西洋圏において本は一般的に横書きで組版が為されており、そのため、標題が上に来ているという指摘が為されました。
独断論、懐疑主義、そして批判の立場へ
・また、「一般問題」第一節一段落から二段落の議論の大きな枠組みは、カントによる以下のような認識と対応しているという風に見なされました。
カント事典の「懐疑主義」の項によれば、カントは、人間の認識に関する純粋理性の歩みを主に三つの段階に分けています。それは、①独断論②懐疑主義③批判の立場(=カントの立場)です。
・カントは①の「独断論」を純粋理性の「幼年時代」と呼んでおり、このような立場は「理性は無条件に客観を認識できると考えており、理性それ自体への反省を欠いている」ものと見なされます。
・それに対し、②の「懐疑主義」は、「認識を経験にのみ基づくものと考えて、理性に対して完全な不信を表明する立場」であると述べられています(カント事典、「懐疑主義」p. 51)。しかし、独断論に対して「懐疑的に反駁することは、それ自体としては、われわれは何を知ることができるか、また反対に何を知ることができないのかということについて、何の決定もしない」[B 791]ものであるため、懐疑主義の立場は「そこに長く滞在するための居住地ではない」[B 789]とカントは述べています。
・一段落で独断主義者と懐疑論者の問題点が述べられたのち、二段落ではカントは自ら自身の立場である批判主義の立場を打ち出しているという解釈が為されました。
・そして、独断論においては後者の問い──すなわち「形而上学はどうして可能なのか、また理性がこの形而上学に至るためにはどうすればよいか」という問いが重要視されるのに対し、カント自身の「批判主義」の立場は前者の問い──すなわち「いったい形而上学は可能なのか」という問いを重要視しています。
・しかし、二段落の最終文で、カントはこの問いを「実際に存在している形而上学の或る種の主張に対する懐疑論的反論」によってではなく「かかる学の、いまのところまだ蓋然的な概念に基づいて」問うべきだと述べています。
その際、カントはその根拠として「我々は、現在のところまだいかなる形而上学をも認めていないのであるから」ということを挙げています。このように「まだいかなる形而上学をも認めていない」とカントが述べている点において、カントの立場は懐疑主義と本当に異なるのかどうかについて議論が為されました。
蓋然的(problematisch)と蓋然性(Wahrscheinlichkeit)は異なる?
・また、この最終文においてカントが「蓋然的な概念にもとづいて」という言い方をしていることに着目が為されました。注によれば、蓋然的な概念について、カントは以下のように述べています。
「或る概念がまったく自己矛盾を含まないにしても、その概念の客観的実在性が認識せられなければ、私はこれを蓋然的(problematisch)概念と名付ける」(「純理・三一〇」)。
蓋然性という術語をカント事典で引くと、そこには「一般に、ある事象が生じる確からしさ、確実さの度合い」と書かれており、それは主に「数学的な確率論」に関わる概念であると述べられています。
しかし、今回の読書会では、カント事典の「蓋然性」の箇所は「proba-bility(英)」、あるいは「Wahrscheinlichkeit(独)」のことであり、同じ「蓋然性」という訳語が与えられていたとしても、それは「problematisch」とは異なるのではないか、という指摘が為されました。
カント事典において、「problematisch」という言葉はp. 110の「究極目的」の項において一度用いられているだけであり、「Wahrscheinlichkeit」とは異なる術語として確立されているわけではありません。同じく「蓋然性」と訳されるこの二つの語がいかに違うのかについては、今回では結論が出ず、判断の留保が為されました。
・また、一段落の十行目で、カントは形而上学の最も崇高な目的を「最高存在者と来世との認識」であると述べていることに関して、議論が為されました。純粋理性批判の冒頭部分で、カントが形而上学の目的を「最高存在者・自由・不死」であると見なしているという指摘が為されました(主催者はまだ確認できていません)。
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